2009年07月

アメリカでは6月から9月までの長い夏休みに子供たちをサマーキャンプに入れる。アメリカ全土には小規模から大規模までさまざまなサマーキャンプがある。親たちは自分の子供たちに合ったキャンプを選んで入れるのだ。

私の長男が高校2年生の時、アメリカのサマーキャンプに入れた。ネットが普及しだした頃でいろいろなキャンプを比較検討し、西海岸の施設も整ったところを選んだ。キャンプも中には小規模で着いた途端からテント生活に寝袋というところもあるから要注意だった。日本からはるばる飛行機に乗り、着いたらテントというのは疲れることだ。

サマーキャンプに申し込み、準備もけっこう大変だった。はしかや3種混合などすべての予防接種済みの証明、健康診断書、歯医者の医師の名前なども提出しなければならなかった。持ち物はキャンプ用バッグやアルファベットの名前を注文し、長い白い布テープに印刷された名前を切ってすべての持ち物に付ける作業、まるで幼稚園に入る前の準備並みだった。3ヶ月前から地元の国立大学に留学しているオーストラリア人学生に家にきてもらい、英会話の特訓もさせた。

費用も2千ドルくらいかかったし、往復の飛行機代も8月の一番高い時の料金だった。サンフランシスコで税関にかかり、カリフォルニアの小さい町へさらに飛行機を乗り継ぐので航空会社の子供サポートサービスに依頼し、無事乗り換えられるように手配もした。カリフォルニアの小さい町に着くとキャンプ従業員が迎えにきてくれることになっている。到着した夜、事務局から無事着いて今は自分のベッドで寝ている、とファクスで知らせが入り、ほっとした。

出発当日の朝、私の妹が車で空港へ連れていくために迎えにきてくれた。当日の朝、長男は浮かない顔をして、突然行きたくない、と言うではないか。私はこのキャンプのためにどれだけ準備し、お金を遣ったか!ここでドタキャンなんて許されない!と強引に車に乗せた。妹は行きたくないというなら止めたら、と言う。私はここで止めたら、どんなことも許されると思ってしまい、教育にならない、と空港まで強行した。航空会社のカウンターに行くと子供サポートサービスの女性が子供だけでアメリカへ渡航する他の子供たちのところへ連れていってくれた。ほら、見てごらんなさい、あなたより小さい小学生や中学生がひとりだけでアメリカへ行くのよ、高校生のあなたが行けないわけないでしょ、と言うとやっと納得してようやく税関の向こうへ行ってくれた。

それから2週間、すっかり日焼けして帰ってきた。とっても楽しいキャンプだったようだ。日本語は通じず、英語も多少は達者になったという。帰りにキャンプ経営者がキャンプ場から自家用飛行機でカリフォルニアの小さい飛行場まで送ってくれたというではないか。その請求書が後からくるのではないかとヒヤヒヤしたが、来なかった。好意で送ってくれたようだ。

反抗期で父親に口もきかなかった長男が帰ってくると父親になんのこともないおしゃべりをしだして夫は「おい、彼が話しかけてきたぞ!」とうれしがっていた。効果はあったようだ。男の子だからあまり詳しい報告はしないが、彼にとってとってもいい体験をし、いい影響を与えたと今でも思っている。
mixiチェック

裁判員制度が導入されるにあたり、出廷の際男性はスーツを借りられるようにするという報道を聞いた。刑事裁判を傍聴したことがあるが、男性も女性もジャージーにぶかぶかのズボンにサンダル履きという刑務所からそのまま出廷したような粗末な格好で法廷に現れ、法廷で腰縄と手錠をはずされる。初めて刑事事件を傍聴するとこの姿を見るとかなりショックを受ける。

裁判員制度で一般の裁判員の前で腰縄・手錠をはずすのは止めて法廷に出る前にはずす、ということも検討しているそうだ。

きょうの新聞では女性も化粧を認めてほしい、と大阪地裁で検討するためプロジェクトチームが発足されたそうだ。ただでさえ、法廷にひっぱられ、粗末な格好をさらすのはいかにも被告という姿を裁判員に予断や偏見を植え付けることになる、という考えだ。女性被告におしゃれを認めてほしいというせつな願いだ。

身だしなみくらい認めてもいいのではないか、と思う。

民事裁判では服装は自由だが、裁判官の前でいい印象を与えるためにも男性はスーツとネクタイ、女性もスーツ、あるいは清楚な格好が好ましいと言われている。よれよれのTシャツとジーンズは避けた方がいい。裁判官も第一印象で判断することもあるものだ。実際、よれよれの格好で法廷に出たら、まともに取り合ってもらえず、敗訴した、という話は聞いたことがある。いい印象を裁判官に与えることは大事なことだ。



mixiチェック

ニューヨーク時代ボーイフレンドがいた。ブルックリンハイツというところに住んでいた。彼の住むアパートはちょうどマンハッタンの反対側でブルックリンブリッジとマンハッタンの夜景を見渡せるきれいたところだ。今は相当高い家賃になっているに違いない。その通りの数軒先に有名な作家、ノーマン・メーラー氏が住んでいた。いつも美人を傍らに歩いていたそうだ。というのも一度お目にかかってみたいと思いながら、私は会ったことがなかった。彼は住んでいるのでよく見かけたという。

ノーマン・メーラー氏の本はまだ読んだことはない。数年前に亡くなったという報道を見て妙になつかしく思い出してしまった。

このボーイフレンドは生涯独身のままだった。私が日本に帰国して日本人男性と結婚した時、アメリカ製のお鍋のセットを結婚祝いに贈ってもらった。今も大変重宝し、使っている。

このボーイフレンドとはアッパーイーストサイドのアパート群の合間にあった公共のプールで知り合った。公的機関で働き、フルートが趣味で民間の小さいオーケストラにも所属していた。その趣味のせいかクラッシックのコンサートにはよく連れていってもらった。リンカンセンターからカーネギーホール、今やよく知られるタングルウッドにも連れていってもらったものだ。クラッシックのよさを十分学ばせてもらった。長男が高校生の時、妹と妹の長男と一緒にニューヨークを訪れた時、一緒に食事をしたのが最後だった。白髪交じりのひげをたくわえ、ダンディで年を取ってもいい男だった。妹は昔のボーイフレンドと知っていたが、長男には知り合いのおじさん、と伝えた。ずーっと手紙やパソコンメールでやり取りし続けてきたが、その後フロリダへ住居を移し、昨年8月に亡くなった、と彼の友人から手紙がきた。一昨年、体調が悪いと聞き、最後にもう一度お別れに会ってこようと思ったが、私が椎間板ヘルニアを患ってしまい、長時間フライトが無理でキャンセルした。その時の彼の失望は計り知れなかった。そしてその後亡くなった。私は結婚し、子供ふたりをもうけたが、彼は一生独身を通した。

私は罵り合って別れることがあまりない。一度おつきあいすると死ぬまでおつきあいだ。アメリカに友達がひとりまたいなくなり、寂しい思いを感じる。私を教育・啓発してくれたいい友だった。
mixiチェック

考えてみるとガンで逝った友人が多い。この友とは老後の果てまで仲良くしていきたいと思う価値観の合った友が皆先に逝ってしまった。

独身で華やかな交友関係をもっていたK子は子宮がんで亡くなった。42歳で壮絶な最後だった。彼女とはヨーロッパや今のクロアチアに当たる旧ユーゴスラビアも一緒に旅した。彼女は亡くなったが、彼女を通して知り合ったクロアチアの友始め他の友人たちと今でも交流し、貴重な友を残してくれた。

次に亡くなった友人は乳がんだった。彼女には重度の障害児がいた。有名外資系企業の役員秘書として長く働き、障害児が生まれた時に働き続けなさい、と言ったのも彼女のアメリカ人上司だったという。施設に入っていて週末になると車椅子の出し入れが便利というベンツを運転して迎えに行き、自宅で一緒に過ごすのが唯一の楽しみだった。私の長男と1週間違いの生まれなので重度で寝たきりの息子が健康だったら今はどういうことができるの?とよく聞かれた。お産で脳に酸素がいきわたらず、障害を負ってしまった直後、ご主人とも離婚し、母親の援助も受け、育てた。その母親も数年後乳がんで手術、3年後に転移して亡くなってしまった。自分だけはこの子を残して死ねない、とそれはそれは注意して健康診断も受けていたのに母親と同じ乳がんを患い、3年後に帰らぬ人となった。お子さんは東京都下の施設に預けられていると聞いていたので亡くなってからいくつかの施設に電話して聞いてみたが、わからなかった。家族はお兄さんがひとりいらしたが私とのつながりもなく、消息はわからない。お子さんが不憫で自分が大事な友を失ったということより、お子さんのことでどうしてやることもできないことに泣いた。彼女も40代半ばだった。

次に50代半ばで逝った友の死因は肺がんだった。彼女を取り巻く友人たちの中で私と価値観を共有する大事な友だった。独身、やはり外資系企業で人事課長までやったやり手のキャリアウーマンだった。ホスピスに入り、最後に見舞った時は目も開けられず、彼女のお姉さまが私がきてくれたと耳元でささやくと閉じた目をぐるぐるとまわして反応したことが忘れられない。

もうひとり残念に亡くなったのは働く親たちの会を創立当時から一緒にやってくれたJ子さん。彼女がいなかったらこの組織もなかっただろう。私も含めてどれだけ多くの働く親たちが助けられてきたか。彼女が残してくれたこの活動は今も後輩たちが活動を続けている。

皆それぞれなにかを自分に残してくれた。自分が逝ったら今の友人たちになにを残せるのか、と考えてしまう。
mixiチェック

私には資格試験ほど縁のないものはなかった。英語関係の資格試験ももたず30年も英語を使う仕事をしてきたのだ。自信あるのは経験のみ。今採用試験を受けたなら、まったく受かることなどないだろう。

でも挑戦はした。しかし、間抜けとおっちょこちょいと勘違いが災いしてお話にならなかった。

アメリカから戻ってすぐにまず英検1級を受けようと挑戦したのだ。1970年後半だったと思う。
手続きを取り、自宅近くの公立学校が試験会場だった。受験番号を机に置き、試験時間を待った。見渡すと、なぜか皆机の上に紙切り用の小さいナイフを置いてある。あれっ、なんだろう?と思ったが、私は必要ないわ、と無視した。試験用紙が配られた。当時の試験用紙は確かA4サイズをふたつに折ったものが数ページだった。折った端にはホッチキスで二箇所軽く止めてあった。

スタートと同時に私はそのホッチキスをはずしにかかったのだ。まわりの人たちはナイフでホッチキスと反対側の紙の折り目を切り開いていたのだ。でもまわりには目がいかない。そしてホッチキスをはずして開いたところから答案用紙に書き始めた。升目があり、ほどんどが正解番号を書くというものだった。どんどん答案用紙を埋めていくのだが、あいにくというか答案用紙の番号がほとんど同じ数なのだ。ところが最後の問題の段階になって答案の升目の数が合わないことに気づいた。えっ、なに、これ?しまった、と思った時はすでに遅し。完璧に番号を間違えて書き込んでいったわけで、自分の馬鹿さかげんにいらだち、怒り、結局英検試験は二度と挑戦しなかった。

次に挑戦したのがTOEICだ。これはだいぶ後になって挑戦した。時代はパソコン時代だ。受験申し込みもパソコンからだ。当時TOEICのサイトを開くと大人用のTOEIC申し込みとジュニア用TOEICの申し込みを同じサイトを半分こづつに分かれて案内があったのだ。おっちょこちょいの私は日付の方に釘付けとなり、受験日の早い方を申し込むことにした。それがジュニア用だったのだ。受験日会場に行くと年配の人たちも少しばかりいたが、大半は学生だった。そこで初めてジュニア用に応募してしまったことがわかった。なんというまた間抜けな私。仕方ないがジュニア用を受けてきたが、結果は完璧!でもちっともうれしくない。だってこれはジュニア用、できて当たり前ではないの!これですっかりやる気をまたなくしてしまった。TOEIC事務局にサイトのまぎらわしさを後日指摘したら修正されていた。

あともうひとつ間抜けな受験があったが、どうも自分には受験には縁がないものとあきらめ気味だ。
mixiチェック

↑このページのトップヘ