2009年07月

お寺の夏期講座

先週末鎌倉円覚寺での夏期講座に一日だけ参加してきた。この講座は4日間にわたり、講師を招いてお寺の座敷を開放しての講座だ。最終日がちょうど衆議院の解散だったがその日の講師は小泉純一郎氏だった。彼の講座のタイトルは「思うようにいかないのが人生」だった。このところの自民党の支持率低下を予測していたようなタイトルだ。私が聴いた講師は松本サリン事件の被害者であった河野義行氏とNPO法人「地球のステージ」代表理事で医者の桑山紀彦氏だった。住職の足立大進師のお話もすばらしかった。書くと長くなるので残念ながらここでは省く。朝6時台の電車で鎌倉へ向かった甲斐があった。

河野氏の講演は子供時代の悪がき時代の話からサリン事件に巻き込まれ、容疑者として疑われた報道被害と警察の過酷な取調べ、世間の冷たい対応に高校一年生だったご長男さんが一手に引き受けた話に時間も忘れて引き込まれた。河野さんの終始一貫して沈着冷静な対応がどこからくるのか、が子供時代の話に通じているのでは、と感じた。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に一時は誤って加害者となった経験から加害者の家族まで世間が仕打ちをするべきでない、裁くのは裁判で、ということを訴えてらした。もし自分のまわりに事件の加害者となるべき人がいたら、どうかその家族まで仕打ちをしないでください、という。河野さんがオウム信者たちをご自宅にまで受け入れていらっしゃることはこういう考えからだろうと思う。まさに聖職者のような考えだ。サリンで寝たきりになった奥様を15年も献身的に看てにっくきオウムと思っても当然なのにこの大きな広いキャパシティに普通の人でない大きさを感じる。

私はある知り合いを通じて河野氏とも知り合い、以前河野氏のご自宅に泊めていただき、ゆっくりお話させていただいたことがある。その時にもオウム信者も泊めていると聞いて驚いたことを覚えている。普通の人以上の人と感じたことが今回の講座を聞いてさらに確信した。

午後は鎌倉の銭洗い天神近くに住む私が以前働いていた会社のクリエイティブディレクターだった方が作った店を訪れた。その方は会社を辞めた後大学教授となり、その大学の学長さんにまでなった。今はリタイアしてご自宅で小さいログハウスを作り、ご夫婦で作った作品を置いている。赤い小さなログハウスはなんとも可愛い店だ。置いてある品はどれも手作りのやさしい作品ばかりだ。仕事をリタイアし、小さなログハウスで好きな作品を作り、売る、採算性はないかもしれないけれど、うらやましいリタイア生活だ。銭洗い天神近くの"Hand & Soul"という店だ。鎌倉へ行く機会があればぜひ訪れてみてください。

観劇とブランド品のイヤリング

友人のお誘いで新橋演舞場で「ガブリエルシャネル」を観てきた。シャネルの生涯があらためてわかりやすく理解できた。主演は大地真央さん。この大成功を収めたシャネルも貴族から受け入れられず、不遇の時代があった。どんなに成功した人でも人生のアップダウンがあるものなのね。

私は服もバッグもシャネルのブランド品はもっていないが、装飾品はもっている。ブローチとイヤリングだ。私がいた会社が港区にあった時、昼に麻布の方へ社員とよく出かけた。今はもうないが、麻布に高級ブランドのアンティーク店があった。ふらっとその店に入ったら、どれも手の届かない品ばかりだったが、ひとつシャネルの1950年代のイヤリングが5万円くらいであった。私はそもそもイヤリングはまったくつけない。それなのにそれを買おうとしたのはそのイヤリングは耳全体を覆うばかりの大きなものだった。芸能人が舞台でするようなもの。それをジャケットの胸ポケットに刺して使うなら洒落た使いようだと思ったのだ。それとアンティークですから値段がそのうち上がるかも、という欲につられて、買ってしまった。そのまま押入れの中に十数年。

やっぱりこれ使わないわ、と思い、銀座のリサイクルショップへ売ろうともっていって値段を聞いてびっくり。なんと売値はたったの2500円だという。あまりのばかばかしさに売る気も失せて持ち帰ってしまった。捨てるに捨てられず、売れば2500円、なんというバカな買い物をしてしまったのだろう。でもシャネルはシャネルだ。舞台を見て、やっぱりもうしばらくは手元に置いておこうと思った。

新婚2年で亡くなったお嫁さん

夫の甥の嫁さんが新婚2年で亡くなった。この半年間、甥は仕事を辞めて看病し続けたが、病には勝てなかった。33歳の若さだった。あんなきれいな若い女性が棺に入っているのを初めて見た。葬儀の日が結婚記念日2年目だった。私たち夫婦と息子たちもこの結婚式に参列した。華やかで美しい花嫁さんだった。こんなに早く逝ってしまうとは。

通夜も葬儀も涙涙だった。本人も家族も皆現役なので大勢の人たちが参列する盛大な葬儀だった。このところ家族のみで見送る質素な葬儀ばかりだったのであらためてお客様がたくさん来る盛大でにぎやかな葬儀を経験した。

甥は婿入りだ。嫁さんは3人娘の長女だった。彼のこれからの生活が心配だ。甥の両親は離婚し、母親、つまり夫の姉は3年前に他界している。婿入り先のご両親は娘を亡くし、「息子」も同時に失くすわけにはいかない、私たちの息子として面倒を見るから安心してほしい、とありがたい言葉をいただいた。

火葬場で置いてある他の写真を見るとみな爺さん婆さんばかりだった。あんなに華やかな若い女性の写真を見ると若すぎる死がほんとうに残念だ。

それにしても会食と飲むことの多い二日間だった。夫は新調した喪服に安心したせいか、よくまあ、食べるわ飲むわの連続だった。

人生いつ終わるかわからない、悔いのない生き方をしたいものだ。

初めてのアメリカ人との出会い

私が英語に関心をもったきっかけは中学生時代住んでいた杉並の近所に進駐軍の家族の住まいがあり、ブロンドの可愛い女の子と親しくなって彼女の家に入り浸るようになったことだ。夕食時までおじゃましておいしいハムのサンドイッチをごちそうになっていると父が怖い顔して迎えにきたものだ。彼女のお父さん、ハンサムな軍人さんだが、どうぞお入りください、と家の中へ案内しても玄関から一歩も入らず、私を家に連れ戻すことがあった。

最初は杉並に住んでいたが、今は代々木公園となり、その前はオリンピック村となった渋谷の場所が当時ワシントンハイツと呼ばれたアメリカ軍人さんの家族の住まいがあった。そこにも何度か招かれ、ゲートを入ると広い芝生にポツンポツンとある大きな家を訪れるとアメリカにきたような感じがしたものだ。茶色い飲み物で口に含むとシュワーッとした飲み物がペプシコーラだと知ったのもこの頃だ。

彼らはそのうちアメリカへ帰って行った。退役軍人となり、ミシガン州に農場をもって暮らしているという手紙が届くようになった。それからは手紙での交流が始まった。私が1968年に初めてアメリカへ渡った時、休みをとってグレイハウンドバスでアメリカ一週旅行をした。その旅行でミシガン州の彼らの農場を訪れ、数日過ごしたことがある。のどかな田舎のいい暮らしだった。その後も毎年クリスマスカードを交わす時に近況を書いたファミリーレポートを送り、お互いの安否や近況を報告しあった。

去年のクリスマスカードが彼から届かなくてなにかあったと感じていた。私がいつもクリスマスカードに書くパソコンのメールアドレスに突然メールがきた。今年2月に退役軍人だった彼が亡くなったとブロンドのお嬢さんから連絡があった。そのお嬢さんも今は3人の子供の母親で年も50代だ。お父様が亡くなり、なにかなつかしい自分の時代が終わったような気がした。このところNYで親しかった友人も去年8月に亡くなり、11月にはカナダの友人も亡くなった。昔元気だった頃の友人たちが次々と天に召されていくのは寂しい限りだ。そういう年にこちらもなってきたということかもしれない。でも亡くなった相手のお嬢さんと今度は交流が始まったのだ。新しい交流、こうして友人関係が引き継がれていくこともうれしいことだ。

メタボの夫の喪服

夫の親戚に不幸があり、この3連休に夫婦で通夜、葬儀に出席しなければならなくなった。夫は2月に私の母が亡くなった時着た喪服がきつくてしようがない、という。3,4年前に買ったばかりだ。もったいないから近くのスーパーにリフォームするところがあるのでもっていかせたが、胴回りをあまりに広く出さねばならず、生地が足りない、と言われてしまった。結局いつも行く紳士服店につるしの喪服を買いに出かけた。

店で「長く着られるいいものを選びたい」などと言うから、「前もそのせりふ言ったわよ!結局3年ももたなかったではないの!」と私が反論。夫のおなかのメタボぶりはすごいのだ。これでも朝は玄米ごはんに、野菜の具だくさん味噌汁、納豆、みょうがをのせた冷奴、梅干、と健康食そのもののご飯を毎日食べさせているのに、彼のメタボはとどまるところを知らない。

私なんか20年前に買った喪服をまだ着ている。体型はもちろん20年前と比べてかなり太ってしまったのだが、ゆったりしたデザインを選んだからまだ着られる。デザイン、素材の違う夏冬用と2着買っておいた。それに当時はけっこう高かったいいブランドものだから生地もいいし、これだけ長く着られているのだからやっぱりいいものはお買い得だ。

車を運転して連れて来てくれた次男もちゃっかりとネクタイを買ってもらっていた。買い物後近くのうどんやのファミレスで食事した。次男は車でそのまま彼女とデートのショッピングへ、夫は大学の同窓会へ出かけて行った。私はワンコと土曜の午後を静かに過ごしている。誰もいない家は天国だ!

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Mikki

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