数十年生きてきてこの人と出会わなければ別の人生だったかも、という出会いがいくつかあった。そのうちの一人は元上司だった。NYから戻ってある外資系法律事務所に勤めていた時、結婚したのだが、残業が多く毎晩夜中だった。それで同じビルの別のフロアの外資系企業でスタッフを募集していたので応募したのだ。金曜までは法律事務所で翌週月曜からは同じビルの別フロアの会社へ転職した。
影響を与えてくれた元上司は数年後独立して別の会社を起こしたが、私はこの会社にはとうとう定年近くまで勤めることになってしまった。高齢出産マークの35歳を過ぎる頃から子供をもつことを考え、ついに妊娠した。この会社では子供をもって働く前例がなかった。総務に相談したが、まずは辞めてもらう、ということを言われ、今でこそ出産理由は辞めさせる理由にはならないが、その頃は結婚したら、子供をもったら、女性は会社勤めは辞めるのが普通の時代だった。
それで上司に妊娠したこと、いつまで働けること、などを辞める覚悟で報告した。その上司は「これからは女性も子供をもっても働く時代が来る。子供を育てるまわりの環境を整えて、子供を産んでも働き続けてみては」と言われたのだ。まさにそういう時代がやってきたことを彼の言葉を思い出すと先見の明あり、と思う。それから母親の援助が得られるか、保育園状況は、ベビーホテルは、と探し続け、ついに会社で子供を産んでも働くママさん第一号となったのだ。おかげで長男、続けて次男を授かり、出産前日まで働き、出産後も1ヵ月半で職場復帰を果たした。その後苦労して働く親たちと子育て支援の組織も立ち上げた。今は後輩たちがこの組織を継続してくれている。
この時の上司の理解がなければ、自分は専業主婦となり、今の人生はなかったのでは、と思う。感謝してもしきれない恩師だ。上司は10数年前、60代の若さでくも膜下出血によりあっけなくこの世を去った。
外資系企業で子供をもって働くママとしてけっこうマスコミにも取り上げられた。仕事と子育て両立奮闘記は書ききれないほどある。また別の機会に書くことにする。
2009年07月
以前このお墓を今買うとしたらいくらするか、とお寺の事務局に聞いたことがある。今なら4500万円だそうだ!マンションが買える値段だ、と驚いた。今なら到底買えない。お墓は所有権でなくてあくまでも使用権だからこの金額で私たち使用者は転売はできない。お寺さんがやることだ。 母の納骨で我が家の墓地はかなり古く、そろそろ新しい墓地を建てなければ、と思い、お寺と取引のある石屋さんにどの程度かかるものか聞いてみた。なんと9百万円というではないか!3年ほど前夫の先祖のお墓を新しくしたが地方ということもあるだろうが、百万円以下でできたものだから、この金額にはびっくり仰天した。 石屋さんについては勝手に外から安い石屋さんを探して建ててもらうことはできない。このお寺さんには4軒の石屋さんと取引があるそうで、そのうちのお寺に近い一軒だ。おそらくここにお墓をもてる家はこういう値段のお墓だからけっこう財産がある、よってその財産持ちが亡くなったのだから莫大な遺産相続がある、だから1千万円くらいのお墓が楽に建てられる、という解釈ではないだろうか。我が家の財産はすべて先祖が失くし、残ったのはこのお墓だけだ。
私も妹も港区の白金で生まれた。今言う元祖「白がね〜ぜ」だ!お隣は昔の野村銀行の頭取のお屋敷だった。このお屋敷の見事な庭園でよく遊んだものだ。でもここのお家もぎょらん坂や目黒の土地もすべて失ってしまい、財産なんて呼べるものはここのお墓以外なにもない。よって遺産相続もない。石屋さん、こういうお墓の継承者もいるのだから、ここのお寺のお墓の主は財産家ばかりなんて思わないでほしい。 1千万円あれば、生きた人間に使うだろうし、あったとしても老後が心配だし、まあ、夫か私が死ねば、生命保険やら、多少は蓄財があるから建てられるかも。それまでお墓の建立はお預けだ。
東京都議選が終わった。民主党が自民を圧勝した。そりゃあ、最近の政治を見ていればどうにも弱者いじめとしか見られない法律改正をしてきた自民政党には嫌気がさすのも当たり前だ。後期高齢者医療、障害者自立支援法、母子加算全廃、派遣法、など自民党が改正してきた法律はどれも見た目には支援してくれそうな法律だが、弱者切捨てのこの上ない冷たい改正だ。おまけにたった1万2千円の定額給付金をばらまいて数年後には消費税をあげるのは、くれないでいいから消費税上げないでくれ、と言いたくなる。
日本政府はどっちを向いて政治をしているの?と疑問だらけだ。ほんとうに国民を救う政府になっていない。拉致被害者もそうだ。何人から戻ってきたが、横田めぐみさんはじめまだ何人も北朝鮮に残されたままだ。
以前聞いた話だが、東ティモールで内戦があった時、どの国も自国の軍用機を飛ばして自国民を助けにきてくれるのに日本政府は自衛隊は海外へ飛ばせないだの、と助けにきてくれない。それでカナダの飛行機に乗せてもらってようやく近隣のアジアの国に連れていってもらったという。カナダではみなさんよく我慢してがんばってくれた、と脱出したカナダ国民に金一封くれたそうな。
日本はどうしたと思います?迎えにきてもくれない日本政府、アジアの都市から命からがら日本にたどりついて脱出してきた人たちに飛行機運賃の請求書が届いたという。なんという冷たい国だろう、日本は。
日本のパスポートは日本国民を守ってくれるためのパスポートだ。海外で危機に出会ったら、真っ先に日本国政府が守ってくれなければ困る。そのための国家だ。君が代反対、日の丸反対、となんでも反対を言っていられる国は侵略や危機に遭遇したことのない平和ボケのノー天気な国民だ。自国の国歌や国旗に対してノーという国民は日本くらいだろう。どの国も胸に手を当てて直立姿勢で敬うのが他の国では当たり前だ。外国人参政権をよこせ、と言っている人たちはまず日本の国歌国旗を敬えるのか、と問いたい。アメリカでは市民権を得るのにまず国家に対する忠誠を誓わせるという。
自民党には反省の意味でも一度政権から降りて、真に国のためになる政党が権力についてほしいと思うのだが、民主党も日教組あたりから当選している議員もいるらしく、不安になる。これからの日本を背負う、真の政治家があまりに少ない。どの政治家も党のことやら利権、金がらみばかりでうんざりだ。
ニューヨークの体験ー3
前回NYの私の住まいがアッパーイーストサイドと書いた。1970年代、国連関係のパーティに呼ばれて行った時、若い品のいい女性と知り合いになり、住まいを聞くとなんと私のアパートのすぐ近くということがわかった。彼女は外務省勤務のご主人の赴任でNYに住んでいるという。一歳になるお嬢さんが私と同じ名前ということがわかり、親しみを感じた。お子さんがいるのでめったに外に出られない、パーティの時はベビーシッターに頼んで出かけなければならない。ご主人は超多忙を極めるお仕事だ。海外でお子さんとふたりだけの生活も孤独だ。
そんなわけで近くと知った私はお互いに食事に招いたりした。私のアパートは古いドアマンもいない質素な安アパートだ。彼女の住まいはドアマンのいる立派な高そうなアパート。何度か行き来したが、そのうち疎遠になってしまった。
それから数十年、働きながらふたりの息子をもうけ、私は某外資系企業に勤める働くママさんをやっていた。ある日新聞を見て仰天した。彼女のご主人が駐米大使に抜擢されたという外務省人事の発表だった。昔のアドレス帳を見るとご主人の名前はそのとおりだった。これはお祝いのお手紙を書こう、とご自宅の住所がわからなかったので外務省宛てにご主人さまに書いた。奥様と1970年代、多忙を極めてらしたお留守に何度か交流したこと、その後私は働きながら子育てし、働く親のネットワークを仲間と立ち上げ、現在に至っていること、駐米大使夫人となればお忙しくなると思われますが、できれば奥様にこの手紙をお届けしてほしい、ということなどを書いた。さてその手紙が奥様に届いたのかどうかいまだにわからない。返事が来ないということは届いてないのかも。
というのは駐米大使になってしばらくのこと、ワシントンポストという新聞に大使の奥様のことがすっぱ抜かれていたのだ。それは前夫人とは離婚し、芸者ガールと再婚したという。芸者が何で悪い!芸者はプロの接客業だという大使の反論も掲載されていた。接客業のプロであるし、駐米大使在任中、ご夫人はきっとすばらしい伴侶としてご活躍されたと思う。
それにしても私が書いたお手紙は?離婚なさっていては届けていただけなかったのかも、とつくづく残念に思った次第だ。この駐米大使は田中真紀子当時の外務大臣に更迭されてしまった。それからもまったく音沙汰のない現在である。
私が初めてアメリカに渡ったのは1968年だった。今でこそビサなしでアメリカへ行ける時代だが、当時は東京虎ノ門にあるアメリカ大使館で面接を受けてビサを発行してもらった時代だった。一度は却下され、ショックを受けたが、ホームステイ先のご主人が国際便のパイロットをしていて日本に飛行してきた時に一緒に大使館に行ってくれて一発でビサが降りた。4月にマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたばかりの時だ。
彼が操縦する飛行機に乗ってアメリカへ渡った。アメリカ大陸が眼下に見えた時、どの広い家も青々としたプールがある豊かな家並みが国の豊かさを見せてくれた。シアトルの家はワシントン湖にあるマーサーアイランドにある高級住宅地だった。1960年代の日本はまだまだ貧しく、アメリカの豊かさには到底かなわいものだった。家の広さはひとりひとり広い個室をもち、来客用ダイニングルームもあり、キッチンにはオーブンレンジの他当時見たこともない電子レンジや食器洗い機もあった。
アメリカに渡ってまもなくロバート・ケネディ司法長官が大統領選挙に出馬してロスアンゼルスで暗殺された。そして同じ年、元ファーストレディのジャッキー・ケネディがギリシャの海運王のオナシス氏と結婚し、私が住むまわりの奥様たちが大騒ぎをしていたのを覚えている。
国際線のパイロットは一度出かけると一週間も帰ってこないのが奥様の不満で国内線業務に替えるということで住居地をシアトルからミネアポリスへ移した。私たちは夫婦の運転する大型バンでシアトルからミネアポリスまで4日かけて移動した。パイロットの奥様というのに飛行機が嫌いだからだそうだ。車から見るアメリカ大陸の広さと美しいモンタナ州の景色など、車で移動した楽しさも味わった。子供たちは上ふたりが男の子、一番下が可愛いブロンドの女の子だ。飼っている犬はサモイエという大きな真っ白な犬だった。
ミネアポリスでの住宅探しに奥様と同行して広い豪華な家をいくつも見た。日本では考えられないほどの広さと豪華さだった。彼らはミネアポリス郊外の高級住宅地で最上階に私の部屋とバスルームもついている家を契約してくれた。自分専用のバスルームがあるのは快適だった。アメリカでは収入に応じて住む住居も分別されているのだということもわかった。ほどなくこの地でカレッジに通うことになった。日本では通学の関係上考えられないが朝7時からの授業だった。カープールというシステムで同じ大学に通うハンサムなおぼっちゃまくんが6時に迎えにきてくれて通ったものだ。帰りは大学から近くのショッピングセンターまでバスで行き、そこに奥さんが迎えにきてくれた。語学が共通の数学が得意だった。ある時、誰も解けない数学問題をすんなりと解いてしまい、日本人の子は頭がいい!と驚かれたが、そんなわけはない、当時の日本の教育が進んでいて数学問題はとっくに高校でやったことのある問題だったのだ。今はゆとり教育とかいっているが、昔の日本の教育はほんとうに進んでいたということがわかる。ありがたいことだった。
1年半ほどで私は帰国したが、彼が操縦する飛行機がハイジャックされ乗客もろともキューバに連れていかれたが、全員無事に帰還したというニュースが入ってきた。彼ら家族はミネアポリスで英雄扱いだったそうだ。ある時からこの家族とも連絡つかなくなり、今はどうしているか、3人の可愛い子供たちも今は40代となっていることだろう。
Mikki
Mikki