2009年07月

ニューヨークの今昔

ニューヨークに住んでいる友人が一時帰国しているので久しぶりにランチした。今はNYに長期滞在計画しても「赴任パッケージ」というのがあるそうだ。空港へリムジンのお迎えがあり、まずは住まいが見つかるまでの滞在先のホテルまで連れていってくれるし、予算と希望に応じたアパートを用意して次々と見に連れていってくれる。その中から場所やアパートのたたずまい、広さ、家賃を検討して決める。長期滞在の場合、特に企業からの派遣でないと7ヶ月分の家賃の前払いも要求されるところもあるそうだ。

住まいが決まるとアパートの家具や電気製品のレンタル、それもひととおりのパッケージプランというものがあり、その中にアイロン台や炊飯器なども含むそうだ。炊飯器などかなり古い製品でびっくりしたが、炊いてみたら、ご飯がとってもおいしく炊けた、と言っていた。ベッドもレンタルしたら大きなダブルがきてびっくりしたそうだ。家具付きのアパートもあるのだが、彼女はレンタルを選んだそうだ。

私が始めてNYに行った1970年代は最初の数週間は安いホテル住まいだった。アパート探すのだってひとりで大変だった。結局国連勤務のイギリス人がルームメートを探しているということを国連スタッフの掲示板で見つけて面接し、気に入られてようやく入居した。アパート代はふたりで折半だ。NYでは当時は治安がとても悪くて安ければどこでもいいというわけにはいかなかった。とにかく命が一番大事だから。それでアッパーイーストサイドというマンハッタンの東側で特に白人ばかりが多く住むところを選んだ。でも安いからドアマンはいない。ドアマンのいるアパートに住みたかったが予算オーバーでとても払えない。

入居してまもなく近所の一人住まいのスチュワーデス、今ではフライトアテンダントというがストッキングを首にまかれて殺されたという殺人事件が起きて震撼としたことを覚えている。それにやはり近くのイタリアンレストランでお肉屋さんの業者がマフィアに銃で撃たれて4人死亡というショッキングなニュースも。マフィアが狙っていた4人は席を替えて奥の席に移動し、空いた席にお肉やさんが座っての悲劇だった。とにかくそういう事件が後を絶たない時代だった。NYをひとりで歩いているといつも後ろを振り返り、安全を確認していたものだ。日本に帰るとどんなに夜遅くても命を狙われる危険はあまり感じないでいられる。水と安全はただという日本はほんとうに安心な国だ。最近はどうも治安も悪くなってきているようだが、それでも日本は他の海外の都市に比べて安心だと思う。

ジュリアーニ市長が就任してからNYはめざましく安全な都市になった。でももうNYに住みたいとは思わなくなった。年取ってきたせいかも。

あしなが育英会と税金控除

20年も前からささやかなあしなが募金を続けている。親の死で進学できない子供たちをひとりでも多く進学してもらいたいと思う。教育は大事だ。今この不況下で親を亡くした家庭、特に母子家庭の貧困は大変なものだ。私も18歳の時に父を亡くし、ちょうど大学受験だったのだが、進学をあきらめた。しかし、やっぱり大学に行きたい、と大学二部の夜間部を受け、当時仕事をしながら奨学金も得て勉強した。奨学金は卒業してから全額返済した。そういう体験があるので親の死で進学できない子供たちを救おうと立ち上がったあしなが育英会に共感を覚えたのだ。

この育英会は当時交通遺児育英会として交通事故で母親を亡くした玉井義臣さんが発足させたものだ。しかし交通遺児は保険による保障が発達したため、災害やガン、現在は自殺遺児も救おうと親の死の原因によらず救おうという運動になったが、お役所は交通遺児で発足したのだから他の原因での遺児救済はだめだ、という。なんともお役所らしい柔軟性のなさ。

そしてこの育英会の理事会に役人の天下りを受け入れ始めてしばらく、なんと玉井さんはこの育英会から追い出されてしまったのだ。その後どんな死因でも救済するという目的で玉井さんはあしなが育英会をあらたに立ち上げて現在に至っている。

今年3月確定申告をした時に私のささやかな寄付の領収書をつけて税金控除を受けようとしたら、税務署から他の寄付は控除できるがあしながだけはだめだ!とはずされてしまった。それであしなが事務所へ問い合わせてみたら、公益法人になっていないから寄付金の税金控除は受けられない、と聞いた。私は公益法人などになるとまた役人の天下りを受け入れないとならないから絶対に公益法人にはならないでください!税金控除などいらないですから!と返信した。天下り絶対反対だ!役人は姑息な手段で寄付金の多い組織に入り込み、乗っ取ってしまう。

ユニセフも黒柳徹子さんのユニセフと日本ユニセフとふたつあるのがわからなかったが、日本ユニセフは公益法人なのでやはり理事にはずらっと元役人が並んでいる。品川には立派なビルももっている。日本ユニセフに寄付すれば税金控除が受けられるのだ。こういう仕組みもようやくわかるようになった。この日本から天下りをなくさないと、日本はよくならないと思う。

クレーム

私は理不尽と思うことに対してけっこうクレームをする方だ。今第三種郵便が問題になっているが、雑誌などの裏表紙を見ると「第三種郵便認可」と書かれているものは第三種郵便料金で送れる。昔子供向け雑誌を小さいお子さんをもつ地方の友人に送っていた。第三種郵便で送る時はA4サイズの封筒の上を3分の1ほど開けねばならない。ある時、開けたところから中を覗き込んだ郵便局員さんが「これは付録が入ってますねえ、雑誌本体は第三種で送れますが、付録は別に定形外で送ってください」と言うではないか。でもそれって第三種郵便についている付録なんだから別料金で送るなんて結局高くつくし、おかしいではないですか!と反論したが、だめなものはだめという。窓口のお兄さんにどんなに反論しても無駄と思い、結局新聞社へ投書した。新聞社から事実関係の問い合わせがきた。双方から確認取るため、新聞社から郵政省にも問い合わせたようだ。数日後新聞社から連絡あり、郵政省によると第三種郵便認可の雑誌の付録も第三種郵便料金で一緒に送れるとのことです、と回答を得た。と同時に郵政省からも電話がきて、送れるということの確認が取れた。「では全国の郵便局で統一してください!こっちの郵便局ではOK、あっちの郵便局ではだめといわれるのが一番困りますから」としっかり頼んだ。

それからしばらくして文句を言われた郵便局へ雑誌を送るべく封筒をもっていくとなんとすんなり受け付けてくれたではないか!「やったね!」と思った。

他にもジャムを塗ったトーストを食べていたらガチッと歯が欠けるくらいの音がした。出してみると小さいプラスチックのようなかけらだ。さっそくジャムの器に書いてある会社へ電話したら、それを見もしないで「それは果物の種です」とけんもほろろ。納得できない私は地元の保健所へ送って調べてもらった。保健所から呼び出されたその企業は青くなってすっとんでいったそうな。でも結局は果物の種だった。その企業からは後日謝罪の手紙とジャムの詰め合わせを送ってきた。お礼の手紙に消費者窓口の指導を徹底してください、消費者にとって見もしないで判断されるのは納得できないものです、と返事を書いた。その企業は消費者窓口の対応を反省したと思う。

最近腹が立ったのは都内のあるビルに入っているある中国料理店だ。確か1500円くらいのおそばのセットに花がたくさん入った器が付いていてお湯を入れてもいいか、と聞くから、はい、と答えた。するとチャイナ服を着たお兄さんがなが〜いくちばしのついたやかんでサーカスのようにお湯を注ぐではないか。まあ、楽しいし、お花の入ったお茶とはいいサービスではないの、と感激した。ところがレジで支払いをしようとすると2300円になっている。えっ、どうして?と聞くとそのお花のお茶料金だという。えっ、サービスではなかったの?と聞くとレジの人はメニューの下の方に小さい文字でお茶料金は有料です、と書かれているではないか!これって詐欺ではないの!と思った。有料ならお湯を注ぐ時にいくらですがどうします?と聞くべきではないの!と文句を言ったが、すでにお茶は飲んでしまっているので無理だった。腹が立ったのでクレームの手紙を書いた。ところが店に書いたって握りつぶされる、それなら、とそのビルのレストラン担当責任者宛に書いたのだ。こんな詐欺まがいの店を入れていいのか!と。1ヶ月もたった頃、なんとその手紙はあて先人不明で戻ってきてしまい、結局このクレームは届かずしまい。受け取ったビル関係の人が開けて担当へまわしてくれればいいのに、これだからこんな店がこんな営業しているのね、と失望。

クレームばかりでない、感激した時もお礼の手紙を書く。去年ハウスクリーニングをしてもらった時はそれはそれは丁寧にきれいにしてくれたので本社へお礼の手紙を書いた。そうしたらお礼と共にドーナツ無料券を贈ってきた。客から褒められて先方もうれしかったようだが、こちらもうれしかった。企業の発展やよい方向に向かうのはこういうクレーム処理をうまくやって改善していける企業が成長していくのでは、と思う。

ニューヨークの体験ー2

ニューヨークに単身住んでいた1970年代初め、夏になると住民はどこに行ってしまったのだろうというくらいマンハッタンの特に週末は空っぽ?というほど人がいなくなった。いるのは観光客と旅行に行けない老人ばかりだ。そんなNYにいるのがたまらなくいやだった初めての夏だった。それで調べたらようやくわかった。

NY郊外にロングアイランドという避暑地がある。無数の別荘があるのだが、NYのビレッジボイスという新聞に週末の別荘を借りて過ごしませんか?という広告が掲載されることを知った。翌年の春、さっそくいくつかのグループに問い合わせ、申し込んだ。確か5月のレイバーデイの祝日から9月始めの祝日までの間、隔週ごとに金曜夜から日曜まで使えるのだ。確かひとり200ドルから300ドルだったと記憶している。合計30名で別荘を借りて15名づつ隔週使うのだ。車のない私はグループの人に乗せてもらったり、帰りは最寄の駅から電車で帰ってくる生活を夏の間、過ごした。

金曜夜は別荘地帯でパーティが催される。大きなプールを囲んでそれはそれは華やかなパーティだった。NY中の若者がみんな集まってしまったのでは、というほど。私たちグループ主催のパーティも私たちの別荘でやった。こういうパーティが順番にやってくるのだ。ここで女も男もデート相手を探す。当時日本の女性が珍しかったのか、私はよく声をかけられ、デートに誘われたものだ。週末ここで相手を探し、平日マンハッタンでデートするのだ。私のグループの女性は皆美人揃いだった。モデルのように美しい女性もいた。私なんか平べったい日本の顔でモテるなんて程遠いと思っていたけど、パーティ会場に入った途端、声かけられ、グループの美人たちに嫉妬されてしまった。だって珍しいだけじゃん、と私。

今思うとこの年代が私の青春だった。

ニューヨークの体験−1

大学教授をしている友人がサバティカルリーブ(大学教授に対する旅行・研究・休息のための7年ごとの半年または1年の有給休暇)を取り、ニューヨークにいる。

私は独身時代ニューヨークに4年ほど仕事をし、住んでいた。今は治安もよくなっているが、当時はほんとうに怖い都市だった。夜なんて絶対ひとりで歩けなかった。そんなNYで私は強盗に合ってしまった。仕事の帰り、まだ外も明るい6時ちょっと前、スーパーで買い物してアパートに向かって歩いていた。アパートの入り口に着いて最初のドアを開けて2階に向かってホールを歩いていると黒人のカップルが入ってきた。そのアパートはアッパーイーストサイドでまわりは高級アパートばかり、白人ばかりが住むエリアだった。一瞬不安がよぎったが、夕食時だし、白人だって黒人の友人はいるだろうし、今入ってきた人たちはカップルだし、と思い直し、階段を上がりきったところで突然うしろからむんずと腕を取られ、鋭利なナイフをのど元につきつけられた。男がナイフをつきつけている間、女が私のバッグの中身を床にばらまき、財布からお金だけ取った。部屋に入る前だったので右手に鍵をにぎっていた。その右手の指をひとつひとつ開こうとしたので階段ホールにいれば誰かが通る可能性があるが、鍵で中に入られたら何をされてもわからない。イギリス人のルームメートは何時に帰るかわからないし。右手を開かされるのを必死に抵抗していたら、彼女は私がはめていた安物の金の指輪が欲しかったのだ。それを取ってサーっと逃げていった。

階段の上段にいた私は彼らの特徴ある顔がよく見える位置にいた。床にばら撒かれたものをかき集め、急いで部屋に入り、911(日本の110番)へ電話した。すぐにパトカー2台、警察官4名がかけつけた。ふたりの服装と人相を言うと、ふたりは外へ飛び出していった。残りのふたりは私から事情聴取し、後日警察へ来るようと言われた。足がガクガクしてきた。

言われた警察署へ翌日出向くと、かっこいい刑事さんのいる部屋に通され、当時はパソコンなどないから膨大な前科者の写真があるアルバムを何冊も見させられたが、この日は彼らの顔は発見できなかった。刑事さんによると私は悲鳴をあげなかったから殺されないで済んだと言われた。悲鳴を止めようとしてブスっと刺したり、ズドンと打つというのだ。

1ヶ月くらいしてから担当刑事さんから電話があり、容疑者を別件で捕まえたから同一人物かどうか見てほしい、という。警察へ行くとガラス張りの別室に男ばかり5人が番号をもって並べさせられていた。そこにはあの特徴ある男の顔はなかった。次に女を並ばせた。そこにいたのだ!彼女が!あの人です!と叫び、その場でその女は逮捕された。すると他の4人がガラス張りの部屋から出てくるではないか!エッ?と思っていると、「私なんかさあ、3回も犯人だ!と指名されたのよ〜」彼女らは警察の近所のアパートから集められた人たちだったのだ。これには笑ってしまった。指名されても冤罪で犯人にされてしまうことはないようだ。

それからさらに1ヵ月後、裁判所に出廷命令がきた。裁判所に出向くとまわりは包帯グルグル巻きの怪我した人たちばかり。「あんたは怪我してないのか?」と聞かれた。怪我してないのはラッキーだとも。
この裁判所の法廷に呼ばれて入ると20人くらいの人たちがいて質問もされた。なんだろうこの人たち、と思った。これが陪審員たち、とわかるのはかなり後になってからだ。この体験から住んでいたアパートにいると体がブルブル震え、トラウマとなり、引越しを余儀なくされた。日本に帰って数年後、このアパートに住む友人宅に泊まらせてもらうのでケネディ空港からアパート前に着いた途端、恐怖が襲った。怖い体験は何年経っても消えなかったのだ。
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Mikki

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