2010年01月

地図を読める女


アラン・ビーズ&バーバラ・ピース著作の「話しを聞かない男、地図が読めない女」という本が話題になったことがあった。

私はよくまわりから「地図が読める女」と言われている。実際、方向感覚は抜群、一度行ったことのあるところは二度目にはちゃんと目的地までたどりつく。これ、当たり前と思っていたが、何度行っても覚えられない、という人が多いことに気付いた。それに行ったことのないところも抜群の方向感覚でたどりつける。これは一種の才能だとも言われた。そんなあ、当然でしょうに、と思うのだが。

きのうは民事裁判経験者の女性たちと横浜のご自宅でちょっと遅い新年会だった。料理の上手な彼女の手料理と白と赤のワインでしこたまご馳走になった。デザートのチーズケーキもいちごをはさんだスポンジケーキも手作りだ。残りのケーキや庭のお野菜もお土産にいただいてきた。

その彼女のお宅は東横線菊名駅から坂を上がっていく。道もかなり曲がりくねって、何度も横道を左折、右折、とかなり複雑。歩いて20分くらい。12月に忘年会で伺った時は彼女が駅まで迎えにきてくれて、一緒に歩いた。それで私はもう行けるから駅まで迎えはいらない、と言った。もうひとりの女友達と菊名駅で待ち合わせたが、彼女はまったくの方向音痴で一度一緒に行っているけど、ひとりでは絶対に行けないという。坂を上がるのがしんどいのとあまり歩くのを避けたいというのでバスで行く方法を教えてもらっておいた。駅前にちょうどバスがきたので飛び乗った。3つ目のバス停で降りたらすぐに場所がわかった。そこからさらに坂を下りて、何度も曲がりくねった道をさらに歩く。そうしてたどりついて、玄関のチャイムを鳴らす。一度も電話で聞いたりせずにたどりついた。一緒にきた友人もびっくり、出迎えた彼女もびっくりしていた。

帰宅したら彼女からメールが入っていて「貴女の土地勘は素晴らしいです。感服しました。」と書いてきた。自分では当たり前のことなんだけどなあ。

この土地勘、日本だけと思っていたら、海外でも通じるということに気付いた。パリでもオペラ座近辺から自分の滞在先ホテルまで勘でたどいついたし、どこにいても自分のいる場所がパリのどこか、わかった。メルボルンでも同じ。上海でも北京でもちゃんとわかって目的地にたどりつく。

北京で万里の長城へ観光した後、天安門まで連れていかれるとタクシーは拾えないので困るなあ、と目をこらしていたら、赤信号で止まっていた先の道路が自分の滞在先のホテルの前の通りと同じだ、と直感した。そこで青信号で渡った先で止まって降ろしてくれ、と英語でわめいて降ろしてもらった。そこから延々歩いたら、自分のホテルにたどり着いた。妹と一緒に行ったメルボルンでも乗ったバスが逆方向と気付いてすぐに降ろしてもらい、別のバスで姪の自宅にたどりついたことがあった。妹はなんでわかったの?とびっくり。赤信号で右折ラインに入るべきところが左折ラインで止まったから、簡単よ、と言ったら、それでもよく気付いた、と驚いていた。

やはり妹と一緒だった上海で都心のショッピングエリアから夜観劇を予定していた劇場に歩いていくのに妹はそっちじゃない!とかなり言い張ったが、私の方向感覚の方に強引に連れて歩いていったら、「あら、ほんとうだ」とまたびっくり。知り合いとシドニーへ行った時も同じ。ちゃあんと知らない目的地へたどりつき、帰りは郊外からバスでシドニー中心部まで着いて、そこから自分のホテルまで歩いてたどりついた。

どうやってこの方向感覚が備わったのか自分でもわからない。でもありがたい便利な才能だ。

「ライ麦畑でつかまえて」著者D.J.サリンジャーさん91歳で亡くなる

このところアメリカの作家の訃報が続く。
先日はエリック・シーガルの訃報があったばかり。

今回はJ.D.サリンジャーが27日91歳で亡くなったという訃報。

この作家は伝説の作家と言われ、有名なベストセラー「ライ麦畑でつかまえて」の作品以来隠遁生活を送り、メディアにまったくあらわれてこなかった。もう亡くなっているのかと思っていた。メディアの発表がないからまだ生きているのではとも思っていた。その作家がとうとう亡くなったという。アメリカニューハンプシャー州の自宅で死去したという。

この「ライ麦畑でつかまえて」の原作が私の大学でのゼミの課題だった。このゼミで夫と知り合ったという縁があった。

この本は世界各国で翻訳され、6500万部も売り上げ、日本でも毎年25万部も売れているという。この作品以来、まったく作品が発表されていないが、長男が俳優という遺族が彼が書き残したものを出版されていけば、かなり関心を引くことになるのではと思う。

数十年前のゼミで読んだ本だがまた読み返してみるとまたあらたな思いで読めるかもしれない。

年齢制限

1970年代ニューヨークにいた時、知り合いが秘書を募集していた。応募がたくさんきていて驚いたことに10代の若い女性から70歳近い人までが応募してきたことだ。書類の中から一番適性のありそうな人を選んで面接していく。年齢という制限をとっぱらって選んでいたことに驚いた。あの頃からアメリカでは年齢制限は差別ということで禁止されていたのだ。

だからというか、日本の飛行機に乗ると若いスチュワーデスばかり、今はフライトアテンダントという。アメリカの飛行機に乗ると気付くが、けっこう年いったフライトアテンダントが多い。デパートでもかなりのお年を召した人たちが売り場にいる。日本は若い子ばかりで大違い。これは年齢制限禁止から定年制が設けられていないからだ。80歳になっても働いていた知り合いもいた。私と同世代のアメリカの友人たちはまだまだ現役だ。なんでそんなに早くリタイアしたのか聞かれることが多い。年取っても働き続ける人たちがいる一方早めにリタイアして生活をエンジョイしている人たちもまた多い。私の元上司のアメリカ人ご夫婦は夏はフランス、パリ郊外の広い庭付きの家で過ごし、冬になるとフロリダ、キーウエストへ愛犬を連れて移動する生活を長く続けていた。ご主人がガンで亡くなり、パリ郊外で追悼パーティに参加するため、初めてそのお宅を訪れたことがある。広い庭にゲストルームもある広い家、豊かなリタイアメント生活がうかがえた。その彼女もとうとうお年を感じたせいか、パリ郊外の家を売り、フロリダを終の棲家にするという。

私が長男を産み、仕事を続けるため、保育園のお迎えのベビーシッターを探していた時、地元の地域新聞に募集広告を出した。新聞社は年齢制限をいくつにしますか?と聞いてきたのでニューヨークでの年齢制限撤廃を感じていたので「年齢制限は入れないでください」と依頼した。するとその週末電話が鳴りっぱなしだった。下は高校生のアルバイト志望から地元に住む韓国人夫婦、上は70歳のおばあさんまで幅広く応募してきてびっくりした。その中から適性のある人を選べばいいと思った。

結局当時残業が多かったので夜遅くまで見てくれる若い女性に決めた。ところがこの女性、とにかくよく休む。午後3時頃会社に電話がかかってきてきょう保育園にお迎えに行けないという。これにはあせった。それが何度もとなると困り、二番手に取っておいた私と同世代の女性に替えてしまった。この女性は以後10年間下の子が保育園を卒園するまで一度も休むことなく続けてくれた。具合が悪くて休む時は中学生から高校生になったひとり娘さんが学校終えてから代わって迎えに行ってくれた。

話がどんどんそれてしまうが、そんなわけで年齢制限なんて応募の中から見ればいい、というのが私の考えだ。といったって私は経営者でないから、ひとりそう思うだけ。まあ、組織となると部下に年上は扱いづらいという理由も出てくるからなかなか年齢を考えないというわけにはいかないのだろう。それに年齢制限とっぱらったら、爺さん婆さんがなかなか会社を辞めないで、老害をふりまき、ますます若者の就職が締め付けられるという負の災いもついてくるかも。やっぱり難しいことだわね。

正社員の解雇

昨夜NHKで「正社員が危ない」というタイトルが放映されていた。突然会社を解雇される「ロックアウト型解雇」が増加しているという。これは会社で突然IDカードを取り上げられたり、長期間自宅待機を命じられるなど、一方的に職場から閉め出される解雇をいう。過激な解雇だ。

今までは派遣社員や契約社員の雇用継続が絶たれることが多かったが、いよいよ正社員にもその影響が出ているという。

小泉政権時代に派遣労働法が改正され、製造業も派遣社員を雇用できると聞いてこれは危ない法律だと思ったことを覚えている。案の定、企業にとっては都合のいい雇用形態が横行することになってしまった。

不当な整理解雇や退職強要が行われても、労働基準監督署には紛争解決の強制力がなく、裁判で勝訴しても、実際に元の職場に戻るのは難しい。私のまわりには最高裁まで争って勝訴し、会社に戻っている人も何人かいる。労働裁判は厳しいものだ。どんなに企業に非があっても、資金・権力のある企業は強い。個人が企業に立ち向かうことは容易でない。まず収入を絶たれて裁判をしなければならないことは兵量攻めで戦うことだ。その上裁判官も強い方の味方と感じることもあった。

正社員の解雇はさらに加速するだろうという。私が尊敬する経済評論家の内橋克人さんが正論を言っていた。

今の時代はほんとうに生きにくい世の中だ。年間3万人以上も自殺者が出ていることが異常だ。雇用を絶たれるということは即経済生活を絶たれるということなのだ。これはむごい。子供たちも含めて家族全員悲惨なことになる。住むところも追われ、教育も受けられず、どう生活していったらいいのか、途方にくれることになる。生活保護を受けたくても、車をもっていてはだめ、貯金があってもだめ、とかハードルが厳し過ぎる。

安定した雇用を確保し、定年まで働き続けられる当たり前の幸福を庶民が得られる世の中に今の政府はやってほしい。二世議員ばかりでお金の苦労のない政治家ばかりだし、やっと民主党になったと思ったら、ここでも利権とお金が暗躍している。それも億単位の金額、庶民にはほど遠い金額。もううんざり。

「ラブストーリー」

アメリカの作家エリック・シーガルが1月17日に亡くなったという報道を聞いた。1970年代「ラブ・ストーリー」という映画が大ヒットした。1970年代に青春を送った人は覚えているのでは。日本では「ある愛の詩」という題名の純愛映画だ。その映画の原作者。ライアン・オニールとアリ・マクグロー主演。大富豪の主人公オリバーは貧乏女子大生のジェニファーとの結婚を大富豪の父親は許さない。愛を貫くがジェニファーは不治の病に冒されて亡くなる、という涙なしでは見られない純愛映画だった。

この映画がヒットしていた時、私はニューヨークにひとり住んでいた。週末になるとシングルズバーへ行ったり、デート相手を探したり青春を謳歌していた。どうやって知り合ったか忘れてしまったが、リッチな独身ユダヤ人の男性と知り合った。この人は先日フロリダで亡くなったブルックリンのユダヤ人ボーイフレンドとは違う相手だ。あ〜、年月って恐ろしい、この相手の名前すら覚えてないのだから。でも何度かデートしたことは覚えている。

その彼と最初にデートしたのが映画館でこの純愛映画を観たことだった。ところが私はまだNYに来たばかりで、早々とボーイフレンドを一人に絞ることに抵抗を感じていた。それでやはりNYで勉強している女友達を連れていってしまった。ふたりで観る純愛映画なのにもうひとり連れていってしまったのだ。彼はそれでもいやな顔せず、3人でこの映画を観た。見終わった私たちふたりの女性は涙で顔がくしゃくしゃ。その後どうしたのかも覚えてない。ただこの男性、私を結婚相手とみて交際を申し込んできた。この男性と結婚していたら、私はリッチなNYのユダヤ人男性夫人となっていたのだろうか。

アメリカでのデートと言えば、その数年前にさかのぼったミネアポリスでもデートしたことがある。ひそかに思いを馳せた同級生の男の子とようやくデートにこぎつけ、ミネアポリスでその頃唯一の日本料理店でてんぷらを食べた。その後、映画に行った。ところが食べたエビのてんぷらがおなかにあたって、映画の最初から最後までトイレから出られなかった。この時見た映画が何だったかは思い出せない。

ホームステイ先のご夫婦がお見合い相手に日本人男性を見つけてきた。ミネアポリスに本社を置く大手アメリカ企業に勤務する人だった。自宅に招待し、夕食を一緒にした。この時奥様が撮ってくれた夕食テーブルでの写真が一枚ある。その後、映画を観に行った。ところがその映画のチケットを私に払わせたことで相手に対する興味を一気になくして、その後デートは断った。この時の映画は覚えている!確か「サボテンの花」というコメディでゴールディ・ホーンという可愛い女優さんが主演だった。

アメリカでもけっこうおつきあいしたけど、結局結婚にはいたらず、帰国して典型的な日本人男性と結婚してしまって現在にいたっている。まあ、可愛い息子ふたりにも恵まれ、仕事も子育てしながらやり遂げ、まあまあの人生だったと思う。アメリカで結婚していたらどんな人生だったのだろう、と時々思う。

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