2012年03月
2012年03月31日
知り合いの訃報
出かける前に朝の犬の散歩を済ませ、パソコンメールをチェックするとアメリカで弁護士稼業をしているF先生が亡くなったと昔同じ法律事務所で働いていた司法書士をしているAさんからメールが入っていた。
海外で個人事務所を設けて仕事をし、自宅の家もあるのでは、後の処理が大変だ。都内に住む奥様が急きょカリフォルニアへ向かったと言う。F先生は朝事務所に出勤して突然倒れ、そのまま意識が戻らずお亡くなりになったという。年齢はもう77歳くらいになるのでは。
ここに一冊の本がある。F弁護士さんが1998年に出版した「日/米国際訴訟の実務と論点」「訴状の送達から判決の執行まで」というサブタイトルがついている。
たくさんの法例や問題点など難しい日米国際訴訟の法律の本だが、わかりやすく書かれている。この本の出版記念パーティが当時学士会館であり、私も呼ばれてサイン入りでいただいた記念すべき本。
F弁護士さんは1959年東京大学法学部卒業、ワシントン大学ロースクールで修士、同ロースクール助教授を経て、東京の法律事務所で弁護士として活動していた時、私がニューヨークから戻り、この事務所に就職、4年ほどお世話になったところだ。
この20年間はカリフォルニアへ住居を移し、最初は大規模法律事務所に勤務したが、後に独立、個人事務所を持ち、弁護士としての業務をやっていた。まだまだ現役でご活躍の中、突然倒れたという。
やはりある程度年を取ったら、海外から引き揚げるなり、身の辺の整理をしたりしておかないと残された家族に迷惑がかかるなあ、と思った。人間明日死ぬとも思って生きてないから、、、
確かお嬢さんも東大出てワシントン州と日本の弁護士資格を持っていると聞いている。お嬢さんが後を継ぐか、整理をするだろう。
F先生のご冥福を祈る。
海外で個人事務所を設けて仕事をし、自宅の家もあるのでは、後の処理が大変だ。都内に住む奥様が急きょカリフォルニアへ向かったと言う。F先生は朝事務所に出勤して突然倒れ、そのまま意識が戻らずお亡くなりになったという。年齢はもう77歳くらいになるのでは。
ここに一冊の本がある。F弁護士さんが1998年に出版した「日/米国際訴訟の実務と論点」「訴状の送達から判決の執行まで」というサブタイトルがついている。
たくさんの法例や問題点など難しい日米国際訴訟の法律の本だが、わかりやすく書かれている。この本の出版記念パーティが当時学士会館であり、私も呼ばれてサイン入りでいただいた記念すべき本。
F弁護士さんは1959年東京大学法学部卒業、ワシントン大学ロースクールで修士、同ロースクール助教授を経て、東京の法律事務所で弁護士として活動していた時、私がニューヨークから戻り、この事務所に就職、4年ほどお世話になったところだ。
この20年間はカリフォルニアへ住居を移し、最初は大規模法律事務所に勤務したが、後に独立、個人事務所を持ち、弁護士としての業務をやっていた。まだまだ現役でご活躍の中、突然倒れたという。
やはりある程度年を取ったら、海外から引き揚げるなり、身の辺の整理をしたりしておかないと残された家族に迷惑がかかるなあ、と思った。人間明日死ぬとも思って生きてないから、、、
確かお嬢さんも東大出てワシントン州と日本の弁護士資格を持っていると聞いている。お嬢さんが後を継ぐか、整理をするだろう。
F先生のご冥福を祈る。
2012年03月30日
二男の会社のバッグのセールへ
きのうは都内にある二男の会社のセールへ地元の友人K子さんと行ってきた。妹も友人と来ていた。二男の会社は小売業、扱っている製品は主にバッグ。輸入ブランドバッグや国産バッグ、キャリーバッグやスーツケース、ランドセルにいたるまで、たくさんの品を扱っている。
K子さんはあっという間に透明バッグが満タンに。3万4千円もするイタリー製バッグが千円というのもあり、K子さんは買っていた。K子さん、息子さんの嫁さんやら二男の彼女やら知り合いのお子さんにやら、もうたくさん買い込んでいた。
いったん清算し、先に買い物を済ませていた妹ととりあえず、近くの鮨屋、「魚がし日本一」へランチに行った。にぎりと味噌汁、茶碗蒸しが付いて980円。ランチを済ませて妹は帰っていった。K子さんと私は再度二男の会社へ戻り、さらに物色。イタリー製のハラコのバッグをなんと千円で買った。
ハラコとは牛や羊等の胎児あるいは生れて直後の毛皮のことで、食肉 の副産物。そもそもはある民族が好んで子牛を食したそうで、この時に副産物として 出る毛皮がビロード状でとてもきれいな為、毛皮として使われたそうな。
さらにセリーヌのお洒落なバッグと肩から斜めにかける黒のカーフのバッグ、ホールマークのポリエステル買い物バッグも。
二男の会社の上司や同僚たちが次々に挨拶されて、私もいつもお世話になっています、と挨拶続けた。女性社員がいらして、Mさん(二男)は会社を明るくしてくれて人気があります、と言ってくださり、嬉しかった。皆さんに可愛がられているようで安心した。
K子さんはさらに買って、持ち切れず、自宅へ宅配の手配をした。私もついでに彼女の家に一緒に送ってもらうことにし、今週末彼女が届けてくれるそうだ。楽しみ。
それから問屋街近辺で彼女の趣味のビーズを買い、喉が渇いたのでコーヒーショップでアイスティーを飲み、ひと休み。電車に乗ったが、帰るにはまだ早いので船橋で降りた。もうバッグは買ってはだめよ、と注意しながら、さらにリサイクルショップ巡り。さんざん楽しんだ一日だった。
K子さんはあっという間に透明バッグが満タンに。3万4千円もするイタリー製バッグが千円というのもあり、K子さんは買っていた。K子さん、息子さんの嫁さんやら二男の彼女やら知り合いのお子さんにやら、もうたくさん買い込んでいた。
いったん清算し、先に買い物を済ませていた妹ととりあえず、近くの鮨屋、「魚がし日本一」へランチに行った。にぎりと味噌汁、茶碗蒸しが付いて980円。ランチを済ませて妹は帰っていった。K子さんと私は再度二男の会社へ戻り、さらに物色。イタリー製のハラコのバッグをなんと千円で買った。
ハラコとは牛や羊等の胎児あるいは生れて直後の毛皮のことで、食肉 の副産物。そもそもはある民族が好んで子牛を食したそうで、この時に副産物として 出る毛皮がビロード状でとてもきれいな為、毛皮として使われたそうな。
さらにセリーヌのお洒落なバッグと肩から斜めにかける黒のカーフのバッグ、ホールマークのポリエステル買い物バッグも。
二男の会社の上司や同僚たちが次々に挨拶されて、私もいつもお世話になっています、と挨拶続けた。女性社員がいらして、Mさん(二男)は会社を明るくしてくれて人気があります、と言ってくださり、嬉しかった。皆さんに可愛がられているようで安心した。
K子さんはさらに買って、持ち切れず、自宅へ宅配の手配をした。私もついでに彼女の家に一緒に送ってもらうことにし、今週末彼女が届けてくれるそうだ。楽しみ。
それから問屋街近辺で彼女の趣味のビーズを買い、喉が渇いたのでコーヒーショップでアイスティーを飲み、ひと休み。電車に乗ったが、帰るにはまだ早いので船橋で降りた。もうバッグは買ってはだめよ、と注意しながら、さらにリサイクルショップ巡り。さんざん楽しんだ一日だった。
2012年03月29日
定年後継続雇用裁判
きのうは午後からOさんの定年後継続雇用裁判の弁論準備だった。
11時半に浦安のA子さんと銀座で待ち合わせ、有楽町のVino Vitaでランチした。サワラのグリルと十五穀米とラタトゥーユ(煮込み野菜)のランチを注文、たくさんのサラダやサイドディッシュ、スープ、デザート、飲み物が取り放題、その上毎週水曜日はレディスデイで女性は880円。安い!
銀座でちょっとお買い物して、霞ヶ関へ。すでにM弁護士さん、支援者のTさん、Kさんも東京地裁13階民事19部の前の椅子に座って待っててくださった。あれっ、肝心の裁判原告のOさんがいない。2時半の裁判始まる直前にやってきて、皆オカンムリ!弁護士さんや支援者を待たせて一番最後に来るとはけしからん!と怒った。弁護士さんも打ち合わせができず、すぐに弁論準備室に呼ばれてしまった。
10分くらいで終わり、出てきた。13階端の待合室に入り、M弁護士さんから詳細な報告があった。
弁論準備の話しとして、評価が悪い、無断欠勤があった、など会社側から指摘があったそうだが、それは遠距離通勤(千葉県蘇我から栃木県小山まで片道4時間通勤)のため、体調を壊した、会社側に申し出たが、家で待機するよう言われたなど、それなりの理由があり、反論した。
人事評価については評価シートがない、評価が存在しない、など会社のガサツな管理があった。連続3年C評価だったことは会社の意図的なものがある、片道4時間通勤で体調を壊し、入院もしたことで評価が下がったなど、事実関係を順次証明する。
あと1,2回で証拠調べ(証人尋問)となるだろう。会社側はOさんの上司と評価した人が証人として出る。原告側はOさんのみ。
この3月で今の女性裁判官が異動となり、交代する。次回から3人の裁判官による合議制となる。
合議制(ごうぎせい)とは、. 複数の人の合議によって事を決定する制度; 執行機関を 複数の人によって構成させる制度のこと。
3人の裁判官によりこの裁判が取り扱われるということはいかに大事な裁判として今の時代の定年後継続雇用について裁判所の意識が高いか現れている、とM先生。心証をよくして、これからもがんばってのぞんで行きたいと力強いお言葉だ。
次回はその3人の裁判官により、5月17日に初の顔合わせとして予定される。
年金は65歳から、でも60歳で定年を迎える多くのサラリーマンのためにもがんばってほしい。
2012年03月28日
2012年03月27日
樋口季一郎
今週の4月6日号の週刊朝日に小さなコラムを見つけた。「奇跡を起こした軍人に光」というタイトルで樋口季一郎のことが短く書かれている。
まったく知らない名前だ。ナチスに追われたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した杉原千畝氏の功績はかなり知られている。同じように樋口季一郎氏は杉原氏の難民救出の2年前、昭和13年(1938年)にソ連と満州の国境にあるオトポールで、多くのユダヤ人を救ったそうだ。
杉原氏の前にもユダヤ人を救った日本人がいたとは初耳だ。
コラムを読むと、
「満ソ国境オトポールでのユダヤ人救出。シベリア鉄道でナチスから逃れた難民は、杉原氏の場合と同じく、ナチス・ドイツに遠慮した日本の外務省と満州国によって満州入国を拒否され、極寒の地で立ち往生した。
ハルビン特務機関長の樋口が、ハルビンに拠点を置く極東ユダヤ人協会の要請に応じて、ビザの発給や食糧援助をすぐに手配し、一説には2万人ともいわれるユダヤ人が救出された。」
ウィキペディアによると、
「当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、『ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ』と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクゼン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。
本来親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人若干名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界(オトポール事件)への移動の斡旋等を行った[1]。
樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。」
ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、表立って喧伝されたことがない、という。
宣伝されることもなかったためか、私もこのコラムを見て初めて知った。
南京大虐殺や従軍慰安婦など信憑性のないことばかり自虐史観を植え付けられ、このようなに誇るべき日本人の杉原氏や樋口氏のことがあまり公にされてこなかった。もっと多く人たちに誇りある話を広めてほしいものだ。
ところで今週発売の週刊ポストの広告見出しに作家の曽野綾子氏の発言に喝さいした。
週刊誌を買ってないから詳細はわからないが、広告見出しを見ると、特集は「君が代日ノ丸問題を考える」
タイトルは「曽野綾子『不勉強で非常識な人々』
「もしうちに小学生の子供がいたら、私は学校教育に抵抗して『先生にも不勉強で非常識な人もいるのだから、見捨てなさい。しかし国際間の礼儀として、国歌国旗に起立できる人が、ほんとうの国際人です。一人でも、勇気を持って立ちなさい。』と教え続けたと思う」
ほんとうにその通りだ。自国の国歌国旗を敬えない国民は世界広しといえども日本人くらいなものだと思う。そんなに嫌なら日本から出ていけばいい。
まったく知らない名前だ。ナチスに追われたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した杉原千畝氏の功績はかなり知られている。同じように樋口季一郎氏は杉原氏の難民救出の2年前、昭和13年(1938年)にソ連と満州の国境にあるオトポールで、多くのユダヤ人を救ったそうだ。
杉原氏の前にもユダヤ人を救った日本人がいたとは初耳だ。
コラムを読むと、
「満ソ国境オトポールでのユダヤ人救出。シベリア鉄道でナチスから逃れた難民は、杉原氏の場合と同じく、ナチス・ドイツに遠慮した日本の外務省と満州国によって満州入国を拒否され、極寒の地で立ち往生した。
ハルビン特務機関長の樋口が、ハルビンに拠点を置く極東ユダヤ人協会の要請に応じて、ビザの発給や食糧援助をすぐに手配し、一説には2万人ともいわれるユダヤ人が救出された。」
ウィキペディアによると、
「当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、『ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ』と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクゼン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。
本来親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人若干名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界(オトポール事件)への移動の斡旋等を行った[1]。
樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。」
ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、表立って喧伝されたことがない、という。
宣伝されることもなかったためか、私もこのコラムを見て初めて知った。
南京大虐殺や従軍慰安婦など信憑性のないことばかり自虐史観を植え付けられ、このようなに誇るべき日本人の杉原氏や樋口氏のことがあまり公にされてこなかった。もっと多く人たちに誇りある話を広めてほしいものだ。
ところで今週発売の週刊ポストの広告見出しに作家の曽野綾子氏の発言に喝さいした。
週刊誌を買ってないから詳細はわからないが、広告見出しを見ると、特集は「君が代日ノ丸問題を考える」
タイトルは「曽野綾子『不勉強で非常識な人々』
「もしうちに小学生の子供がいたら、私は学校教育に抵抗して『先生にも不勉強で非常識な人もいるのだから、見捨てなさい。しかし国際間の礼儀として、国歌国旗に起立できる人が、ほんとうの国際人です。一人でも、勇気を持って立ちなさい。』と教え続けたと思う」
ほんとうにその通りだ。自国の国歌国旗を敬えない国民は世界広しといえども日本人くらいなものだと思う。そんなに嫌なら日本から出ていけばいい。