2018年02月
2018年02月28日
水俣病を告発し続けた石牟礼道子さん死去、美智子さんがお忍びで対面
水俣病をテーマにした作品で知られ、患者の救済に力を尽くした作家の石牟礼道子さんが2月10日に亡くなったニュースはあまり知られていない。パーキンソン病による急性憎悪のため亡くなったという、90歳だった。
石牟礼道子さん死去、90歳 文学で水俣病を告発し続ける
Jcastニュース 2018/2/10 11:32
https://www.j-cast.com/2018/02/10320988.html
水俣病をテーマにした作品で知られ、患者の救済にも力を尽くした作家の石牟礼道子さんが2018年2月10日、パーキンソン病による急性憎悪のため亡くなった。90歳だった。同日、複数のメディアが報じた。
晩年は病を患い、闘病生活を強いられたが、現地から水俣の「無念の思い」を訴え続けた。誠実な人柄そのままの、魂の奥深くから絞り出したかのような作品は、多くの読者を揺さぶり、各地の反公害運動にも影響を与えた。日本では稀有な「社会性の強い作家」として国際的にも評価が高かった。
『苦界浄土』の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退
1927年、熊本県の天草の生まれ。水俣に移り、水俣実務学校卒業後、代用教員などを経て、53年、歌誌「南風」に加わり、歌人としてスタートした。主婦業のかたわら、谷川雁さんや森崎和江さん、上野英信さんらが編集委員を務めた地域交流誌「サークル村」に参加。九州在住の仲間たちと文学活動を活発化させ、同誌や雑誌「思想の科学」などに作品を発表した。
60年、水俣病患者からの聞き取りによる最初の作品「奇病」を「サークル村」に掲載。65年にはさらに、熊本の地域雑誌「熊本風土記」に、水俣病を扱った「海と空のあいだに」を連載する。同誌は、東京で日本読書新聞に勤めていた編集者の渡辺京二さんが熊本に戻って発刊したもので、原稿も渡辺さんからの依頼だった。
68年、「朝日ジャーナル」に『わが不知火』を連載。69年には、「海と空のあいだに」をもとにした『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)を単行本で出版した。ちょうど全国的に公害への関心が高まっていた時期でもあり、反響が大きく、第1回大宅壮一ノンフィクション賞となった。しかし、石牟礼さんは受賞を辞退。そのことでかえって注目されることになった。
その後も、70年には井上光晴さんが主宰する「辺境」に『苦海浄土・第二部』を、72年には「展望」に『天の魚』(『苦海浄土』・第三部)を連載。さらに『あやとりの記』『十六夜橋』『椿の海の記』『水はみどろの宮』『はにかみの国』新作能『不知火』など水俣や南九に根差した作品を数多く発表した。また、熊本出身で日本の女性史学の創設者となった高群逸枝についても研究し、『最後の人―― 詩人高群逸枝』なども出版している。73年、マグサイサイ賞、93年、紫式部文学賞、2002年、朝日賞、03年、芸術選奨文部科学大臣賞、13年、エイボン女性大賞などを受賞した。
作家活動にとどまらず、68年には友人たちと水俣病対策市民会議を結成し、70年には巡礼姿の患者たちとともに大荒れとなったチッソ株主総会に出席。熊本市の友人に呼びかけて水俣病を告発する会を結成するなど、患者支援にも深く関わった。
石牟礼道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日- 2018年2月10日)は、日本の作家。
熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始。1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退。
週刊金曜日の創刊に参画。編集委員を務めたが「手伝いをしただけ」である事を理由に2年で辞任している。
2002年7月、新作能「不知火」を発表。同年東京上演、2003年熊本上演、2004年8月には水俣上演が行われた。
2018年2月10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去。90歳没。
(Wiki)
水俣病の加害者、チッソ社長江頭豊の孫である雅子さんが皇太子妃として皇室に入って以来、皇族が水俣と関わることを極力避けてきたような気がするが、美智子さんが石牟礼道子さんに心を寄せていたこともほとんど知られていない。
「美智子さまは、困難に向き合う人々に励ましの声をかけ続けてこられた」
それなら、息子夫婦、特に雅子さんに水俣へもっと向き合うよう助言したら?
水俣に心を寄せているなら、なぜ長男とその嫁を水俣へ慰霊に行かせないのか?
美智子さまがお忍び対面した故・石牟礼道子さんの人生
Newsポストセブン 2018/2/19(月) 16:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180219-00000020-pseven-soci
水俣病患者やその家族の言葉にならない苦しみを代弁し続けた作家・石牟礼道子さんが、2月10日、パーキンソン病による急性増悪のため90才でこの世を去った。1927年に現在の熊本県天草市に生まれ、すぐに同県水俣市に移り住んだ。これが、石牟礼さんが執筆活動に生涯をかけるきっかけとなった。
1956年に水俣病が公式に確認されると、原因企業であるチッソとの患者の闘争を支援し、1969年に著した『苦海浄土 わが水俣病』で大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれながらも、「まだ苦しんでいる患者がいる」と受賞を辞退した。
戦後の高度経済成長期、国策を担ったチッソが発生させたメチル水銀による公害と、皇室の立ち位置は非常にデリケートなものだった。加えて、雅子さまの母方の祖父が同社の会長を務めたことも、事態を複雑にした。それが2013年7月、大きな転機を迎えることになる。
「2006年に亡くなった社会学者の鶴見和子さんを偲ぶ会で、石牟礼さんは美智子さまと対面しました。病気の影響で手が震えてしまう石牟礼さんのため、美智子さまは“これ、おいしいわよ”と料理を取り分けられたそうです。その時、帰路につかれようとする美智子さまから、“今度、水俣に行きます”と告げられたそうです」(皇室記者)
それからわずか3か月後、両陛下は水俣の地を踏まれ、水俣病患者の慰霊碑に白菊を手向けられた。
実はその訪問時、両陛下はお忍びで胎児性水俣病患者との面会を果たされた。母親のお腹の中でメチル水銀に侵され、生まれながらに障害を負った人々のことだ。
「その面会を実現させたのが、他でもない石牟礼さんでした。偲ぶ会での対面後、石牟礼さんは美智子さまに手紙で“今も認定されない潜在患者のかたがたは苦しんでいます。50才を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやってくださいませ”と訴えかけました。それを受けて、美智子さまは熊本への出発直前、予定になかった胎児性患者との面会を急きょ希望されたそうです」(前出・皇室記者)
ある宮内庁関係者が明かす。
「美智子さまは、人ではなく、その人の成し遂げようとしていることに目を向けられます。ただひたむきに自分のすべきことに邁進する石牟礼さんを、美智子さまは心から後押しされていました」
美智子さまは、困難に向き合う人々に励ましの声をかけ続けてこられた。同じ矜持をもった石牟礼さんのいる天国に向かって、心からの感謝を伝えられていることだろう。
※女性セブン2018年3月1日号
両陛下はなぜ「水俣病胎児性患者」と面会したか 故・石牟礼道子さんと美智子皇后の「秘話」
2018年2月10日(土)16時30分 J-CASTニュース
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0210/jc_180210_0671378446.html
著書「石牟礼道子―椿の海の記」より
2018年2月10日に亡くなった石牟礼道子さんは、水俣病に関心を持つ多くの人と深く交流した。美智子皇后もその一人だった。
天皇・皇后両陛下が水俣に行ったとき、極秘裏に胎児性患者と面会したことがあるが、それは石牟礼さんの願いが実ったものだった。
「絶対に極秘」直前まで患者にも知らされなかった
2013年10月27日、天皇皇后両陛下はそろって初めて水俣を訪問した。「全国豊かな海づくり大会」に出席するためだった。スケジュールは事前に公表されていたが、予定にない「面会」があった。両陛下に会ったのは、金子雄二さんと加賀田清子さん。ともに水俣病の胎児性患者で58歳。二人が過ごす福祉法人「ほっとはうす」の施設長、加藤タケ子さんだけが立ち会った。
胎児性患者は、「水俣病のまま生まれてきた赤ちゃん」ともいわれる。母親の胎盤を通った水銀で被害を受け、言語障害や運動失調など様々な症状を抱える。すでに亡くなった人も少なくない。存命の人もたいがい療養施設やケアホームで暮らす。水俣病患者の中でも最も悲惨な例として知られる。
「石牟礼さんから熱心にすすめられて、皇后陛下が胎児性患者にお会いしたいという強いお気持ちをお持ちです」——そんな急ぎの連絡が、県から施設長の加藤さんにあったのは両陛下が水俣を訪問する前日の朝だった。すべて絶対に極秘、と言われた。直前まで、実際に面会する金子さんと加賀田さんにも教えることができなかった。当日、面会会場の環境センター応接室に着くと、すでに両陛下が二人だけで座っていた。金子さんと加賀田さんは車いす。加藤さんが立ったままでいると、陛下から「どうぞお座りください」と正面の椅子をすすめられた・・・。大宅賞受賞のノンフィクション作家、高山文彦さんは著書『ふたり——皇后美智子と石牟礼道子』(講談社)でその様子を克明に再現している。
この面会が実現する少し前の7月、石牟礼さんは東京・山の上ホテルで開かれた社会学者の鶴見和子さん(1918〜2006)をしのぶ会に出かけた。米国の大学や大学院で哲学などを学んだ鶴見さんは日本を代表する社会学者で、石牟礼さんとは共著も出している。その会には美智子さまも出席されていた。車いすの石牟礼さんは皇后の隣の席を用意され、2時間ほど親しく話した。「こんど(豊かな海づくり大会で)水俣に行きます」ということを直に聞いた石牟礼さんは、後日、「胎児性水俣病の人たちに、ぜひお会いください」と手紙を書いた。「この人たちは、もうすっかり大人になりまして、五十歳をとっくに越えております。多少見かけは変わっておりますが、表情はまだ少年少女です・・・」
何度も石牟礼さんを振り向いた美智子さま
天皇家と水俣とは、深い因縁がある。皇太子妃雅子さまの祖父は、興銀を経て1964年から71年まで、チッソの社長だった。患者や支援者たちが押し掛け、大荒れになった70年のチッソ株主総会の映像には、議長席に座る姿が映っている。この祖父の経歴が、ご結婚に至る過程で問題視された時期もあった。皇太子さまは93年の婚約発表の記者会見で、雅子さまとの話がいったん途絶えた理由として、「チッソの問題もありまして、宮内庁の方でも慎重論が出て・・・」と明かしていた。
こうした事情も熟知したうえで両陛下は水俣に向かったと思われる。公式スケジュールでは「水俣病資料館」の訪問が公表されており、そこで予定通り「語り部の会」の会長から水俣病の経緯と悲惨さを聞いた。そのあと天皇陛下は「本当にお気持ち、察するに余りあると思います」と、異例ともいえる長い感想を語った。居合わせた職員らもびっくりして聞き入ったという。この少し前に、実は両陛下は、「胎児性患者」と極秘の面会をすませていた。夕方になって、その事実が宮内庁から公表された。
石牟礼さんは、この面会には立ち会えなかった。せめてお見送りだけでもしたいと、帰京する両陛下を熊本空港の通路で待った。「美智子さまは石牟礼さんの姿を見つけて一瞬歩み寄ろうとしたが、警備の関係から近寄ることができず、何度も振り向いてお辞儀をしながら、階段を上がっていかれた」
(熊本日日新聞、10月29日)
ほどなく、若い侍従が車椅子の石牟礼さんのところに近づいてきた。皇后さまからの御伝言がございますという。誰もいないところに移動してほしいと言われ、空港ロビーの奥まったとこに退くと、こう告げられた。「お見送りに来ていただいてありがとう。そして、これからも体に気をつけてお過ごしください」
(『ふたり——皇后美智子と石牟礼道子』より)。
石牟礼さんは、この美智子さまとの触れ合いに象徴されるように、水俣の鎮魂を通して多くの人と心を通じ合った。高山氏は同書のあとがきで記す。「タイトルの『ふたり』というのは、何も美智子皇后と石牟礼道子の二人に限定されるものではない。それは本作を読めば、お分かりいただけることと思う」。
朝日毎日だけが石牟礼道子さんの死を社説で紹介したという。
読売、産経、日経は社説では取り上げていない。
社説では朝毎だけが触れた石牟礼道子の死
2月19日(月)9時15分 プレジデント社
https://news.biglobe.ne.jp/economy/0219/pre_180219_0786738202.html
2018年02月27日
皇族の結婚をめぐる騒動は珍しいことではない
明治天皇が婚約破棄した伏見宮禎子(さちこ)女王に慰謝料7億円という記事。
皇族の結婚をめぐる騒動は珍しいことではないそうだ。
美智子さんも初めて皇室に嫁ぐ平民の娘ということでずいぶん反対されたという。
しかし、元華族や皇族たちは、美智子さんがただの平民ですらないことを知っていたのでは?
大正天皇の婚約も撤回された。
当時7歳だった伏見宮禎子(さちこ)女王と内定、6年後に突然取り消された。
理由は禎子女王に肺病の疑いがあるという何人かの医師の判断。
それにより婚約が解消された。
禎子女王に代わって皇太子妃に選ばれたの九条家の娘、節子(さだこ)、破談の翌年に成婚式が行われた。
明治天皇は禎子女王を気の毒に思い、当時のお金で5万円の公債証書を与えたという。
今のお金で6億〜7億円の価値のある慰謝料だった。
そして美智子さんも婚約をめぐる騒動があった。
しかし、この記事によると美智子さんの味方は昭和天皇だったというがほんとうか?
以下記事をどうぞ。
「美智子皇后」も婚姻辞退寸前、「明治天皇」が慰謝料7億円 皇室破談秘史
社会週刊新潮 2018年2月22日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/02260558/?all=1
歴史は繰り返すと言うけれど、意外や皇族の結婚をめぐる騒動は珍しいことではない。平民出身のために婚約解消を取り沙汰された美智子妃(当時)は危機を脱せられたが、いわれなき理由でやむなく身を引かされた姫君もいる。菊のカーテンの裏側で繰り広げられた宮中破談劇の数々。
***
速報眞子さま破談のワケは小室家の「新興宗教」 ついに元婚約者“ジャガーさん”登場
綸言(りんげん)汗の如し――。君主の言葉は容易にひっくり返せないという意味だが、それがあっさり撤回されたのは、明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の婚約だった。
明治26(1893)年、明治天皇は親王の結婚相手として伏見宮禎子(さちこ)女王を「内定」する。当時、禎子女王は7歳。少女ながら気品にあふれ、家柄も申し分なかった。ところが、6年後に突然取り消されてしまう。
皇室の歴史に詳しい近現代史研究者の浅見雅男氏によると、
「禎子女王に肺病の疑いがあると何人かの医師が言い出したのです。医学的に確実な証拠はなかったのですが、何しろ皇太子(嘉仁親王)が幼少の頃から病弱だった。わずかでも女性の健康に不安があれば、妃候補から外さなければならない。結局、この疑いが原因となって婚約が解消されたのです」
禎子女王に代わって皇太子妃に選ばれたのは九条家の娘・節子(さだこ)だった。破談の翌年に成婚式が執り行われたが、さすがに明治天皇は、禎子女王のことを気の毒に思ったのだろう。
「成婚式のあと、明治天皇は禎子女王に5万円の公債証書を与えています。やむを得ない事情があったとはいえ破格の金額でした」(同)
いわば慰謝料である。当時の5万円は今の6億〜7億円の価値がある。
香淳皇后も大反対「宮中某重大事件」といえば裕仁親王(後の昭和天皇)と婚約中の久邇宮良子(ながこ)女王(後の香淳皇后)の家系に色覚障害があるとの噂が流された事件だが、「第二の宮中某重大事件」と呼ばれたのが、その兄・久邇宮朝融王(あさあきらおう)の婚約破棄だ。
「朝融王は学習院中等科の時に、2歳下の酒井菊子(旧姫路藩主家の娘)に一目惚れするのです。そこで大正天皇の許可を得て婚約しましたが、その後、彼女に飽きて結婚する気がなくなってしまったのです」(浅見氏)
もっとも、天皇がいったん認めたものを簡単に取り消すことはできない。そこで朝融王は婚約解消の“工作”に乗り出す。宮中では菊子が義兄といかがわしい関係にあるという噂が流され、朝融王自身も彼女が肺病であるというデマを口にしていた。結局、牧野伸顕宮内大臣まで巻き込んだ末、酒井家からの婚約辞退という形で終息する。
婚約をめぐる騒動は、戦後も起きている。渦中の人となったのは、他でもない美智子妃だ。
昭和33(1958)年11月、皇太子(当時)との婚約が発表されると、「ミッチーブーム」が起きる。史上初の平民出身の皇太子妃に世間は大いに沸いた。
ところが慶事の後ろでは宮中から反対の声があがっていた。それが知られるのは元侍従長・入江相政(すけまさ)の日記が世に出てからだ。
皇室ジャーナリストの渡辺みどり氏が言う。
「婚約発表の前には東宮(今上天皇)のご縁談について香淳皇后が義妹の秩父宮勢津子妃と高松宮喜久子妃を呼んで“平民から(皇太子妃を娶(めと)る)とは怪しからん”と文句を言ったとあります」
香淳皇后は、美智子妃の成婚式が6頭立て馬車になったことも気に入らなかったという。
「この他に、松平信子や、あの“白蓮事件”の柳原白蓮も結婚に反対したとあります。松平は学習院の女子同窓会『常磐会』の会長で上流社会の実力者、また白蓮は大正天皇の従妹。日記には、彼女らが右翼を扇動したとありますが、入江は“幸い、たいしたことなく終わった”と胸をなでおろしています」
正田家に婚姻を辞退させようとする動きもある中で、「敵」だらけの美智子妃の味方は昭和天皇だった。ご成婚が決まった際には、こんな歌を詠んでエールを送っている。
〈喜びは さもあらばあれこの先の からき思ひて いよよはげまな〉
皇室が秘めてきた「破談」の歴史を知っているからこその一首であろうか。
眞子さま結婚延期 続報 13
続報です。
皇族は学習院で学ぶことが長い間の慣習だった。ICUに学んだせいで小室さんと出会い、学習院を否定する教育を歓迎しない皇室関係者のグループがある、との記事。
だからそういうグループが小室家の醜聞を流している?
それだけではないのでは?
元々小室家にはそういう下地があった、ということ。
別に嘘を流しているわけではないだろう。
秋篠宮家が学習院を避けた理由は東宮一家による学習院破壊が元凶では。
もとは東宮一家のせいではないか。
「学習院は皇族・華族のための教育機関として開校された。秋篠宮ご一家のお子さまたちが学習院を離れる一方で、皇太子ご一家の愛子さまは学習院での教育を受け続けられている。」
そりゃあ、愛子さんを受け入れる他の学校がなければ学習院に留まざるをえない。
眞子さまと小室圭さん結婚延期、学習院派閥の影響も?
Newポストセブン 2018/2/26(月) 11:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180226-00000010-pseven-soci
2月6日、眞子さまと小室圭さんのご結婚延期発表がなされた。本誌女性セブンは、結婚延期が発表される2月6日以前から、「小室家の醜聞を世間に広めようとする勢力」の存在を報じてきた。
1月25日発売号の《真子さまの結婚 抵抗勢力の蠢き》と題した記事や、続く2月1日発売号の《「小室家の闇報道」と「破談を巡る筋書き」》という記事では、誰かが意図的に小室さんに関する情報を集め、メディアに流すことで、眞子さまの結婚に疑問を投げかけるような“キャンペーン”を張っているのではないかと指摘した。
そんな中で、急転直下で決まった結婚の延期。いったい誰が、どんな目的で…? そうした疑問を解く鍵は、「皇室の教育の分かれ道」に隠されていると、ある政治ジャーナリストは指摘する。
「眞子さまと小室さんの恋は、キャンパスライフの中で育まれました。ふたりの婚約内定は、世間では“閉鎖的な日本の皇族には珍しい、自由恋愛の成就だ”と祝福されました。それは、秋篠宮ご夫妻が古くからの皇室の慣習にとらわれずに、お子さまを教育されてきたからだともいえます。具体的にいえば、学習院大学に進学させず、国際基督教大学(ICU)に進ませたことです。実際、真子さまと小室さんは、ICUで出会いました。秋篠宮ご夫妻はまた、悠仁さまも学習院初等科ではなく、お茶の水女子大学附属小で学ばせています。
しかし、そうした“学習院を否定する教育”を歓迎しない皇室関係者のグループがあることも事実です。今回の小室さんの一連の報道との関係はわかりませんが、皇族の子息子女の教育を熱心に考えてきた学習院関係者やOBの中には、秋篠宮家の教育方針、ひいては“眞子さまの自由恋愛を礼賛する風潮”に違和感を覚える人たちもいました」
そもそも、学習院は皇族・華族のための教育機関として開校された。秋篠宮ご一家のお子さまたちが学習院を離れる一方で、皇太子ご一家の愛子さまは学習院での教育を受け続けられている。大学進学はまだ先の話なのでわからないが、関係者の話では学習院大学に進学される可能性も高いという。
「学習院で学ぶこと」と「ご結婚されること」…それらは一見すると無関係に思えるが、女性皇族にとっては、実は大きな関係がある。
たとえば、陛下の長女である紀宮さま(黒田清子さん)のご結婚相手は、一般家庭に育った黒田慶樹さんだった。その黒田さんは大学まで学習院で学ばれてきた。秋篠宮さまとご結婚された紀子さまも、大学院まで学習院だった。
「一部の学習院関係者やOBの間には、“皇族とご結婚されるならば学習院で学ばれたかたのほうが安心だ”という考え方があります。それは、長年にわたって皇室の教育を担ってきたプライドもあるでしょう。
愛子さまは雅子さまの方針もあり、学習院で学ばれています。しかし一方で、秋篠宮ご一家の眞子さまは学習院を出られ、そこで小室さんと出会われた。一部の関係者からは、“だから眞子さまの結婚には問題がでた”という声も聞こえてきます」(前出・政治ジャーナリスト)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2018年3月8日号
バレンタインデーの日、皇居でまた三者会談があったそうだ。
「2月14日の昼、皇居では陛下と皇太子さま、秋篠宮さまによる「三者会談」が行われた。皇太子さまが皇居からお帰りになったのは13時半前。だが、秋篠宮さまが出てこられたのはそれから1時間半近くたった14時45分だった。」
その時、秋篠宮殿下は1時間半近くも皇居に残られた。
結婚が宮内庁のいう『単なる延期』ならば、あまりに長い“密談”とのこと。
「2年という冷却期間を置いたとしても、解決できるとは思えませんし、国民の理解が得られるかどうか…。」
と結んでいる。
眞子さま結婚延期 あまりに長い両陛下と秋篠宮さまの密談
NEWSポストセブン 2018年02月24日 07時00分
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12180-654239/
試写会に足を運ばれた眞子さま
眞子さまは2月16日、秋篠宮ご夫妻と、東北の被災地を描いたドキュメンタリー映画の試写会に足を運ばれた。
「ご結婚行事の延期が発表されてから2回目の公の場でしたが、眞子さまのお顔からは感情の揺らぎなどは見受けられませんでした。ただ1つ気になったのは、秋篠宮さま、紀子さま、眞子さまの順に入場されたあと、着席される際に秋篠宮さまと紀子さまが座席を入れ替え、眞子さまと紀子さまが秋篠宮さまを挟むようにされたことです。以前、皇太子ご一家が試写会にお出ましになったときには、皇太子さま、雅子さま、愛子さまという入場順のまま座られていたのに…。図らずも、眞子さまと紀子さまの間に『母娘の距離』を感じました」(皇室記者)
2月6日のご結婚延期発表以降、世間の注目は「再来年」とされる眞子さまと小室圭さんの結婚の行方に集まっている。宮内庁は「ふたりの結婚の意思は変わらない」と強調するが、破談の可能性を噂する声は少なくない。
「小室さんや母・佳代さんにまつわる報道の中には、眞子さまがご存じなかったことが多く含まれていたといいます。戸惑いも覚えられたようですが、それでも眞子さまの“小室さんと一緒になりたい”という思いは揺らいではいないそうです。眞子さまと、結婚に“慎重”な周囲の考えに温度差が生じてしまっているようです」(宮内庁関係者)
それが垣間見えたシーンがある。2月14日の昼、皇居では陛下と皇太子さま、秋篠宮さまによる「三者会談」が行われた。皇太子さまが皇居からお帰りになったのは13時半前。だが、秋篠宮さまが出てこられたのはそれから1時間半近くたった14時45分だった。
「その日、美智子さまは母校・聖心女子大学の関係者の弔問にお出かけになったそうです。お戻りは13時半頃。それから両陛下と秋篠宮さまでいろいろとお話しになったようですが、結婚が宮内庁のいう『単なる延期』ならば、あまりに長い“密談”です。美智子さまは、できるならば眞子さまの望む未来が訪れることを願われているはずです。しかし最近は、“もし破談となったら、眞子さまの心にどれだけの傷跡が残るか”といったことにまで考えを巡らされているそうです」(前出・宮内庁関係者)
秋篠宮ご夫妻は、お子さまたちの意思決定を尊重する教育方針を貫かれてきた。伝統的に皇族方が通われてきた学習院を離れた教育を行われたのも、眞子さまのお相手選びも、その結果といえるだろう。
「とはいえ、金銭トラブルが報じられた小室さんとの結婚には、世論の逆風が吹くことが考えられます。結婚に際して支払われる一時金は、元をたどれば国民の血税。反発が大きくなれば、自由意思というわけにはいかなくなる」(別の宮内庁関係者)
本誌・女性セブンは2018年3月1日号で、佳代さんの「仰天の要求」を報じた。
「秋篠宮邸を訪れた佳代さんは“騒動を収めるためにも皇室でお金をサポートしてもらえないか”と宮内庁側に要求したといいます。小室さんと佳代さんは知人に援助してもらった400万円以上のお金を『贈与』と認識しているそうですが、サポートするということは“借金を税金で肩代わりしてほしい”というようなもの。
2年という冷却期間を置いたとしても、解決できるとは思えませんし、国民の理解が得られるかどうか…。さらに、この一件で紀子さまと佳代さんの間にも大きなひずみが生じ、信頼を欠いた小室さんと眞子さまのウエディングロードは白紙状態に戻ったといいます」(前出・別の宮内庁関係者)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2018年3月8日号
最後はこの記事。
結婚延期について官邸は知らされてなかった、という。
これについて菅官房長官が漏らした言葉とは、
“2年も経てばダメになることもあるかもね”
まあ、誰もがそう思うだろう。
宮内庁では陛下には長官しか会えない、次長は会えないという。
さしあたって宮内庁山本信一郎長官が詰め腹を切らされるだろうという声が出ている。
皇太子の姪にあたる人が結婚するのに相手のことがさっぱりわからなかったことは近来稀なこと、長官の責任を問うことは、人事権を握っている官邸が責任という方向にもっていこうとしているようだ。
眞子さまご結婚延期会見に「菅官房長官」オフレコの寸鉄
デイリー新潮 2018/2/27(火) 5:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180227-00538257-shincho-pol
短くて長いのか、長くて短いのか、はたまたどうして2年なのか……。秋篠宮家の長女・眞子さま(26)と小室圭さん(26)のご結婚が「再来年に延期」発表の報に接して、官邸の要・菅義偉官房長官(69)が漏らした警句のような一言とは。
***
「官邸は今回の延期について、発表直前まで知らされていなかったようです。報じられてきたように、官邸と宮内庁との水面下の暗闘が尾を引いている恰好ですね。なかでも菅さんが、“2年も経てばダメになることもあるかもね”と漏らしていたのが印象的でした」
と永田町関係者。
ここで改めて、その官邸と宮内庁との相克をざっと振り返っておくと、
「2016年7月13日にNHKが天皇陛下の『生前退位』を報じました。それに官邸は不快感を隠しきれなかったのです」
とは、宮内庁関係者。
「陛下は『皇室の安定的な存続』や『象徴天皇のあり方』に頭を悩まされてきました。したがって、女性宮家創設や生前退位について前向きに検討してもらうよう折に触れて官邸へボールを投げて来たのですが、安倍政権はそれを喫緊の課題と受け止めることはありませんでした。そんななかで宮内庁は国民的な議論を喚起すべく、NHKへ『陛下のご意向』をリークした。その流れを官邸は意趣返しと見て取ったわけです」
その後、17年5月16日には、同じくNHKが眞子さまの婚約を報じている。
宮内庁長官人事へ飛び火
政治部デスクが、
「その婚約報道があった夜、菅さんは苛立った感じでした。番記者とのオフレコ懇談の場で、“婚約の噂があるのは知っていたけど”としつつも、“また皇室から離脱される方が出ましたが”という質問にはほっかむりの体だったからです」
と振り返って、打ち明ける。
「また菅さんは折に触れて、“(宮内庁で)陛下には長官しか会えないんですよ。次長とかは会えない”と言う。要するに、陛下の本音がどこにあるのかわからない、宮内庁の態度は腹に据えかねるということなんでしょう」
他方、社会部デスクに話を振ると、
「差し当たって、宮内庁の山本(信一郎)長官が詰め腹を切らされるのでは、と見立てる声が出ています」
とし、こう続ける。
「秋篠宮家から、眞子さまと小室さんのご交際について山本長官に報告があがったのは、昨年頭のこと。その時にはすでに、ご結婚が既成事実化していました。それもあってか、小室家について身辺調査を行なった形跡はありません。皇太子の姪にあたる人が結婚するというのに、相手がどういう家の人なのかさっぱりわからなかったというのは近来稀なこと。この点、長官の責任を問う意見がないわけではない。そもそも、人事権を握っている官邸に睨まれているんですから、なおのことですよ」
とにかく、宮内庁長官にとっては、短くて長い2年が始まったばかりのようである。
「週刊新潮」2018年2月22日号 掲載
2018年02月26日
平昌パラリンピック団結式 秋篠宮両殿下ご出席
今度は平昌パラリンピックが3月9日から18日までスタートする。
きょうはその団結式が東京港区虎ノ門ヒルズ フォーラム」で秋篠宮両殿下ご出席の下、行われた。
映像は書きサイトへ:
10秒と29秒あたりにチラッと秋篠宮両殿下を映すNHK:
下記の画像も紀子さまが欠けている。
ピョンチャンパラ開幕へ 結団式で決意語る
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180226/k10011343901000.html
来月、開幕するピョンチャンパラリンピックに臨む日本選手団の結団式が開かれ、主将を務めるアイスホッケーの須藤悟選手が「競技の魅力を少しでも多くの人に伝え、ひとりでも多くの障害のある人にスポーツをやってみたいと思うきっかけになれば」と決意を話しました。
パラリンピック日本選手団の結団式は、秋篠宮ご夫妻も出席されて、26日午後、東京都内で開かれ、まず、アルペンスキーや新競技として独立したスノーボード、アイスホッケーなど、5つの競技に出場する38人の代表選手が紹介されました。
そして、開会式で旗手を務めるアルペンスキーの村岡桃佳選手に選手団の旗が手渡され、集まった人たちから大きな拍手が送られました。
そして、主将を務めるアイスホッケーの須藤選手があいさつし、「競技の魅力を少しでも多くの人に伝え、ひとりでも多くの障害のある人が、スポーツをやってみたいと思うきっかけになればと願っている。史上最多の13個のメダルを獲得したオリンピックの勢いを受け継ぎ、すばらしい大会にしたい」と決意を話しました。
このあと開かれた壮行会では、羽生結弦選手など、ピョンチャンオリンピックのメダリストからの応援のビデオメッセージが流されたほか、明治学院大学の応援団とチアリーディング部が選手たちを激励しました。
ピョンチャンパラリンピックは、来月9日から10日間の日程で開かれ、日本選手団は前回ソチ大会で獲得した6個以上のメダル獲得を目標に掲げています。
須藤主将「信頼される立場に」
須藤主将「信頼される立場に」
日本選手団の主将のアイスホッケーの須藤悟選手と旗手を務めるアルペンスキーの村岡桃佳選手が、結団式と壮行会を終えて、記者会見しました。
このうち、4回目のパラリンピック出場となる須藤主将は「およそ半分の選手がパラリンピックに初出場なので、まずは顔を合わせてあいさつしながら緊張感をほぐしたい。信頼される立場になって現地で活躍したい」と抱負を話しました。
村岡選手は壮行会で、オリンピックのメダリストから激励のビデオメッセージをもらったことについて、「エールをもらえたのは力になるし、ありがたい。日本選手団としてバトンをつなぐ形で頑張りたい」と意気込みを述べました。
また、日本選手団の大日方邦子団長は「選手たちは和やかながら、少しだけ気持ちのスイッチが入りだしていると感じた。選手たちが全力で力を出し切れるよう支えたい」と話しました。
平昌パラリンピック日本代表が結団式 3月9日開幕
平昌パラリンピックの結団式で選手に声をかけられる秋篠宮ご夫妻=26日午後、東京都港区(桐原正道撮影)
NewMyRoyals掲載の皇太子58歳誕生日
NewMyRoyalsに掲載された皇太子さんの誕生日画像が4枚。
ここでも「自己研鑽すると誓う」と書かれているが、58歳にもなってはてさて自己研鑽するとは?
この記事のコメント欄に痛烈な批判がたくさん!
海外でもこの一家のおかしさが浸透してきたか?
New official photos ofJapan's Crown Prince Family
On 23rd February, Crown Prince Naruhito turned 58 years old. The Imperial Household Agency released new photos on the occasion of 58th birthday of Crown Prince Naruhito with his family. Crown Prince Naruhito vowed to "pursue self-improvement" ahead of his accession to the Chrysanthemum throne on May 1, 2019. |
http://www.newmyroyals.com/2018/02/new-official-photos-of-japans-crown.html
日本の皇太子一家の新しい公式画像
2月23日、徳仁皇太子は58歳になった。宮内庁は徳仁皇太子の58歳誕生日に家族一緒の新しい写真を公表した。
2019年5月1日に天皇に即位する前に徳仁皇太子は「自己研鑽を追求する」と誓った。
コメント欄に批判がたくさん来ていて読んで笑ってしまった。
褒めているコメント皆無。
・日本は印象的な建築と高い文化の長い歴史を持つ国なのに、
彼らはいつも醜悪な、人間味のない部屋に座っている。
この部屋はまるで三流の待合室、
・さえない倉庫のクローゼットみたい、
・マネキンのような女を見る苦痛、
・娘より母親の方が若く見える ← (これはどうかな?)
・この壁はペグボード?
穴の空いたペグボード壁、チープ、
・なんと退屈な写真
・若い娘は1950年代の10歳の子みたい
・毎年同じ部屋を使っている、
などなど。
海外メディアも黙っていなくなってきたようで。
即位したらもっと出てくるのでは?
日本の恥!