水俣病をテーマにした作品で知られ、患者の救済に力を尽くした作家の石牟礼道子さんが2月10日に亡くなったニュースはあまり知られていない。パーキンソン病による急性憎悪のため亡くなったという、90歳だった。
石牟礼道子さん死去、90歳 文学で水俣病を告発し続ける
Jcastニュース 2018/2/10 11:32
https://www.j-cast.com/2018/02/10320988.html
水俣病をテーマにした作品で知られ、患者の救済にも力を尽くした作家の石牟礼道子さんが2018年2月10日、パーキンソン病による急性憎悪のため亡くなった。90歳だった。同日、複数のメディアが報じた。
晩年は病を患い、闘病生活を強いられたが、現地から水俣の「無念の思い」を訴え続けた。誠実な人柄そのままの、魂の奥深くから絞り出したかのような作品は、多くの読者を揺さぶり、各地の反公害運動にも影響を与えた。日本では稀有な「社会性の強い作家」として国際的にも評価が高かった。

『苦界浄土』の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退
1927年、熊本県の天草の生まれ。水俣に移り、水俣実務学校卒業後、代用教員などを経て、53年、歌誌「南風」に加わり、歌人としてスタートした。主婦業のかたわら、谷川雁さんや森崎和江さん、上野英信さんらが編集委員を務めた地域交流誌「サークル村」に参加。九州在住の仲間たちと文学活動を活発化させ、同誌や雑誌「思想の科学」などに作品を発表した。
60年、水俣病患者からの聞き取りによる最初の作品「奇病」を「サークル村」に掲載。65年にはさらに、熊本の地域雑誌「熊本風土記」に、水俣病を扱った「海と空のあいだに」を連載する。同誌は、東京で日本読書新聞に勤めていた編集者の渡辺京二さんが熊本に戻って発刊したもので、原稿も渡辺さんからの依頼だった。
68年、「朝日ジャーナル」に『わが不知火』を連載。69年には、「海と空のあいだに」をもとにした『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)を単行本で出版した。ちょうど全国的に公害への関心が高まっていた時期でもあり、反響が大きく、第1回大宅壮一ノンフィクション賞となった。しかし、石牟礼さんは受賞を辞退。そのことでかえって注目されることになった。
その後も、70年には井上光晴さんが主宰する「辺境」に『苦海浄土・第二部』を、72年には「展望」に『天の魚』(『苦海浄土』・第三部)を連載。さらに『あやとりの記』『十六夜橋』『椿の海の記』『水はみどろの宮』『はにかみの国』新作能『不知火』など水俣や南九に根差した作品を数多く発表した。また、熊本出身で日本の女性史学の創設者となった高群逸枝についても研究し、『最後の人―― 詩人高群逸枝』なども出版している。73年、マグサイサイ賞、93年、紫式部文学賞、2002年、朝日賞、03年、芸術選奨文部科学大臣賞、13年、エイボン女性大賞などを受賞した。
作家活動にとどまらず、68年には友人たちと水俣病対策市民会議を結成し、70年には巡礼姿の患者たちとともに大荒れとなったチッソ株主総会に出席。熊本市の友人に呼びかけて水俣病を告発する会を結成するなど、患者支援にも深く関わった。
石牟礼道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日- 2018年2月10日)は、日本の作家。
熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始。1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退。
週刊金曜日の創刊に参画。編集委員を務めたが「手伝いをしただけ」である事を理由に2年で辞任している。
2002年7月、新作能「不知火」を発表。同年東京上演、2003年熊本上演、2004年8月には水俣上演が行われた。
2018年2月10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去。90歳没。
(Wiki)
水俣病の加害者、チッソ社長江頭豊の孫である雅子さんが皇太子妃として皇室に入って以来、皇族が水俣と関わることを極力避けてきたような気がするが、美智子さんが石牟礼道子さんに心を寄せていたこともほとんど知られていない。
「美智子さまは、困難に向き合う人々に励ましの声をかけ続けてこられた」
それなら、息子夫婦、特に雅子さんに水俣へもっと向き合うよう助言したら?
水俣に心を寄せているなら、なぜ長男とその嫁を水俣へ慰霊に行かせないのか?
美智子さまがお忍び対面した故・石牟礼道子さんの人生
Newsポストセブン 2018/2/19(月) 16:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180219-00000020-pseven-soci
水俣病患者やその家族の言葉にならない苦しみを代弁し続けた作家・石牟礼道子さんが、2月10日、パーキンソン病による急性増悪のため90才でこの世を去った。1927年に現在の熊本県天草市に生まれ、すぐに同県水俣市に移り住んだ。これが、石牟礼さんが執筆活動に生涯をかけるきっかけとなった。
1956年に水俣病が公式に確認されると、原因企業であるチッソとの患者の闘争を支援し、1969年に著した『苦海浄土 わが水俣病』で大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれながらも、「まだ苦しんでいる患者がいる」と受賞を辞退した。
戦後の高度経済成長期、国策を担ったチッソが発生させたメチル水銀による公害と、皇室の立ち位置は非常にデリケートなものだった。加えて、雅子さまの母方の祖父が同社の会長を務めたことも、事態を複雑にした。それが2013年7月、大きな転機を迎えることになる。
「2006年に亡くなった社会学者の鶴見和子さんを偲ぶ会で、石牟礼さんは美智子さまと対面しました。病気の影響で手が震えてしまう石牟礼さんのため、美智子さまは“これ、おいしいわよ”と料理を取り分けられたそうです。その時、帰路につかれようとする美智子さまから、“今度、水俣に行きます”と告げられたそうです」(皇室記者)
それからわずか3か月後、両陛下は水俣の地を踏まれ、水俣病患者の慰霊碑に白菊を手向けられた。
実はその訪問時、両陛下はお忍びで胎児性水俣病患者との面会を果たされた。母親のお腹の中でメチル水銀に侵され、生まれながらに障害を負った人々のことだ。
「その面会を実現させたのが、他でもない石牟礼さんでした。偲ぶ会での対面後、石牟礼さんは美智子さまに手紙で“今も認定されない潜在患者のかたがたは苦しんでいます。50才を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやってくださいませ”と訴えかけました。それを受けて、美智子さまは熊本への出発直前、予定になかった胎児性患者との面会を急きょ希望されたそうです」(前出・皇室記者)
ある宮内庁関係者が明かす。
「美智子さまは、人ではなく、その人の成し遂げようとしていることに目を向けられます。ただひたむきに自分のすべきことに邁進する石牟礼さんを、美智子さまは心から後押しされていました」
美智子さまは、困難に向き合う人々に励ましの声をかけ続けてこられた。同じ矜持をもった石牟礼さんのいる天国に向かって、心からの感謝を伝えられていることだろう。
※女性セブン2018年3月1日号
両陛下はなぜ「水俣病胎児性患者」と面会したか 故・石牟礼道子さんと美智子皇后の「秘話」
2018年2月10日(土)16時30分 J-CASTニュース
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0210/jc_180210_0671378446.html

著書「石牟礼道子―椿の海の記」より
2018年2月10日に亡くなった石牟礼道子さんは、水俣病に関心を持つ多くの人と深く交流した。美智子皇后もその一人だった。
天皇・皇后両陛下が水俣に行ったとき、極秘裏に胎児性患者と面会したことがあるが、それは石牟礼さんの願いが実ったものだった。
「絶対に極秘」直前まで患者にも知らされなかった
2013年10月27日、天皇皇后両陛下はそろって初めて水俣を訪問した。「全国豊かな海づくり大会」に出席するためだった。スケジュールは事前に公表されていたが、予定にない「面会」があった。両陛下に会ったのは、金子雄二さんと加賀田清子さん。ともに水俣病の胎児性患者で58歳。二人が過ごす福祉法人「ほっとはうす」の施設長、加藤タケ子さんだけが立ち会った。
胎児性患者は、「水俣病のまま生まれてきた赤ちゃん」ともいわれる。母親の胎盤を通った水銀で被害を受け、言語障害や運動失調など様々な症状を抱える。すでに亡くなった人も少なくない。存命の人もたいがい療養施設やケアホームで暮らす。水俣病患者の中でも最も悲惨な例として知られる。
「石牟礼さんから熱心にすすめられて、皇后陛下が胎児性患者にお会いしたいという強いお気持ちをお持ちです」——そんな急ぎの連絡が、県から施設長の加藤さんにあったのは両陛下が水俣を訪問する前日の朝だった。すべて絶対に極秘、と言われた。直前まで、実際に面会する金子さんと加賀田さんにも教えることができなかった。当日、面会会場の環境センター応接室に着くと、すでに両陛下が二人だけで座っていた。金子さんと加賀田さんは車いす。加藤さんが立ったままでいると、陛下から「どうぞお座りください」と正面の椅子をすすめられた・・・。大宅賞受賞のノンフィクション作家、高山文彦さんは著書『ふたり——皇后美智子と石牟礼道子』(講談社)でその様子を克明に再現している。
この面会が実現する少し前の7月、石牟礼さんは東京・山の上ホテルで開かれた社会学者の鶴見和子さん(1918〜2006)をしのぶ会に出かけた。米国の大学や大学院で哲学などを学んだ鶴見さんは日本を代表する社会学者で、石牟礼さんとは共著も出している。その会には美智子さまも出席されていた。車いすの石牟礼さんは皇后の隣の席を用意され、2時間ほど親しく話した。「こんど(豊かな海づくり大会で)水俣に行きます」ということを直に聞いた石牟礼さんは、後日、「胎児性水俣病の人たちに、ぜひお会いください」と手紙を書いた。「この人たちは、もうすっかり大人になりまして、五十歳をとっくに越えております。多少見かけは変わっておりますが、表情はまだ少年少女です・・・」
何度も石牟礼さんを振り向いた美智子さま
天皇家と水俣とは、深い因縁がある。皇太子妃雅子さまの祖父は、興銀を経て1964年から71年まで、チッソの社長だった。患者や支援者たちが押し掛け、大荒れになった70年のチッソ株主総会の映像には、議長席に座る姿が映っている。この祖父の経歴が、ご結婚に至る過程で問題視された時期もあった。皇太子さまは93年の婚約発表の記者会見で、雅子さまとの話がいったん途絶えた理由として、「チッソの問題もありまして、宮内庁の方でも慎重論が出て・・・」と明かしていた。
こうした事情も熟知したうえで両陛下は水俣に向かったと思われる。公式スケジュールでは「水俣病資料館」の訪問が公表されており、そこで予定通り「語り部の会」の会長から水俣病の経緯と悲惨さを聞いた。そのあと天皇陛下は「本当にお気持ち、察するに余りあると思います」と、異例ともいえる長い感想を語った。居合わせた職員らもびっくりして聞き入ったという。この少し前に、実は両陛下は、「胎児性患者」と極秘の面会をすませていた。夕方になって、その事実が宮内庁から公表された。
石牟礼さんは、この面会には立ち会えなかった。せめてお見送りだけでもしたいと、帰京する両陛下を熊本空港の通路で待った。「美智子さまは石牟礼さんの姿を見つけて一瞬歩み寄ろうとしたが、警備の関係から近寄ることができず、何度も振り向いてお辞儀をしながら、階段を上がっていかれた」
(熊本日日新聞、10月29日)
ほどなく、若い侍従が車椅子の石牟礼さんのところに近づいてきた。皇后さまからの御伝言がございますという。誰もいないところに移動してほしいと言われ、空港ロビーの奥まったとこに退くと、こう告げられた。「お見送りに来ていただいてありがとう。そして、これからも体に気をつけてお過ごしください」
(『ふたり——皇后美智子と石牟礼道子』より)。
石牟礼さんは、この美智子さまとの触れ合いに象徴されるように、水俣の鎮魂を通して多くの人と心を通じ合った。高山氏は同書のあとがきで記す。「タイトルの『ふたり』というのは、何も美智子皇后と石牟礼道子の二人に限定されるものではない。それは本作を読めば、お分かりいただけることと思う」。

朝日毎日だけが石牟礼道子さんの死を社説で紹介したという。
読売、産経、日経は社説では取り上げていない。
社説では朝毎だけが触れた石牟礼道子の死
2月19日(月)9時15分 プレジデント社
https://news.biglobe.ne.jp/economy/0219/pre_180219_0786738202.html