朝日新聞系列の週刊誌、アエラが珍しく紀子さまのことを素晴らしく褒めている記事。
紀子さまの誕生日文書回答をされるようになったのは昨年から。
今年の文書回答は前回は2千文字にもいかなかったが、5千文字になり、より具体的にご自分の思いを語るようになった。
紀子さま54歳誕生日文書に書かれた鎌倉 芳太郎(かまくらよしたろう)という人。
その名前をあげるまでになるほど、己を出すほど、「実力」と「自信」を見て取った。
「歴史的な建造物の修復と再建、貴重な美術工芸品の収集、復元や保存にむけて、今も励ましや支援が寄せられています。私もこうした取り組みに共感しつつ、沖縄文化研究者で紅型の染色家でもあり、首里城の再建に貢献した鎌倉芳太郎氏についての本や資料を再び読み返しました」
紀子さまは1997年の歌会始(お題は「姿」)でこう詠んでいる。
<染織にひたすら励む首里びとの姿かがやく夏の木かげに>
「言葉こそ使っていないが、情報格差が生じていることへの言及とも読める。世の中を見る目の広さと深さが感じられ、それを表明できるのも「自信」があるからこそだと思った。」
と褒めて書いているのはコラムニスト・矢部万紀子氏。
こういう真摯な記事を読めるようなマスコミになってほしい。
紀子さま、文書に見えた「実力」と「自信」 皇嗣妃2年目の変化〈AERA〉
AERA dot. 2020/9/30(水) 8:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a329b3e6f9f0737e9a29cf60d3de9fd4ca76eb1f
9月11日、54歳の誕生日を迎えた秋篠宮妃紀子さま。これに先立ち、宮内記者会に文書で回答を寄せられた(写真:宮内庁提供)
皇嗣妃となって2年目を迎え、誕生日にあたり記者会の質問に答えた文書に、秋篠宮妃紀子さまの変化が見て取れた。文字数は昨年の倍以上。ご自身の言葉で率直に思いや行動を語る姿に、強い意志を感じずにはいられない。AERA 2020年10月5日号から。
* * * 唐突で恐縮だが、鎌倉芳太郎(よしたろう)という人を紹介する。
1898(明治31)年、香川県生まれ。東京美術学校卒業後、沖縄県女子師範学校に美術教師として赴任。沖縄文化に魅了され、1924(大正13)年から1年間、東京帝国大学教授と共同で沖縄を調査、文化財や建築物、工芸品などを写真撮影した。後に紅型(びんがた)の染色家になり、73(昭和48)年、人間国宝に認定される。83年没。
文化庁の文化遺産データベースによれば、鎌倉氏が沖縄で撮った写真は「それ自体十分高い芸術性と資料性とを併せもった作品」で、首里城も含まれていた。戦火で焼失した首里城を92(平成4)年に復元した時の設計図面は、それが基になった。
以上は全て、ごく最近仕入れた知識だ。正確には9月11日、秋篠宮妃紀子さまの54歳の誕生日。この日、記者会の質問に答えた文書が発表され、そこに鎌倉氏の名前があったのだ。
1年間を振り返っての感想を求められ、紀子さまはまず、「即位礼正殿の儀」など一連の皇室行事を振り返り、次にラグビーW杯、そして昨年12月に訪問した沖縄を取り上げた。10月31日に首里城が焼失してから1カ月余りの訪問で、沖縄県立芸術大学から首里城方面を静かに望んだとした後、こう続けた。
「歴史的な建造物の修復と再建、貴重な美術工芸品の収集、復元や保存にむけて、今も励ましや支援が寄せられています。私もこうした取り組みに共感しつつ、沖縄文化研究者で紅型の染色家でもあり、首里城の再建に貢献した鎌倉芳太郎氏についての本や資料を再び読み返しました」
この一文に、すごく驚いた。訪問したという事実だけでなく、具体的な人物名をあげ、そこから自分のとった行動を明かしていたからだ。そして、こう思った。それはつまり、紀子さまの「実力」と「自信」の表れだ、と。
おおげさだと感じる方もいるかもしれない。そんな方のために、昨年の誕生日の文書を紹介する。
■具体的に思いを語る
昨年は今年同様の皇嗣妃としての活動を振り返っての感想、加えて今後の抱負を聞かれた。それに対し紀子さまはまず、上皇、上皇后両陛下への感謝を述べた。次にこれまでの活動を支えてくれた人らへの感謝。それから令和になって新たに出席した会三つとポーランド、フィンランドへの公式訪問をあげ、こう述べた。「私にとりまして学ぶことが多く、新たな人々と出会う貴重な機会にもなり、感謝しながら務めました」
ほとんどが「感謝」で、「感想」はあまりない。それが1年経って、鎌倉芳太郎氏の名前をあげるまでになった。己を出す紀子さまがうれしく、「実力」と「自信」を見て取った。
実は紀子さまが誕生日に文書回答をするようになったのは、昨年からだ。皇嗣妃という立場になったからで、それまでは秋篠宮さまの誕生日会見に同席するだけだった。
それが、2年目にして大きく変わった。全部で2千文字にもいかなかった回答が大きく増え、今年は約5千文字になった。より具体的に、自分の思いを語るようになったから増えた。その典型が、先ほどから紹介している沖縄。そこにあった「共感」という言葉も、昨年にはないものだった。
翻って上皇さまは、皇太子時代から沖縄に心を寄せ続けている。「忘れてはならない四つの日」の一つは、沖縄戦が終わった6月23日。美智子さまと共に11回、沖縄を訪ねている。その心を子どもの頃から受け継いだ秋篠宮さま。結婚から7年、紀子さまは1997年の歌会始(お題は「姿」)でこう詠んでいる。
<染織にひたすら励む首里びとの姿かがやく夏の木かげに>
皇室に入って以来、紀子さまはずっと沖縄に心を寄せ、学び続けてきたに違いない。だが「実力」と「自信」を示したのは、長く取り組んでいた沖縄だけに限ったことではないのだ。
感想の中で多くの字数が割かれたのは、コロナ禍のオンライン交流についてだった。専門家から話を聞いたり、全国高等学校総合文化祭を視聴したりといった体験を語り、オンラインがコミュニケーションを広げる可能性も述べた。と同時に、情報通信機器を使うことが困難な人がいることにも触れていた。
言葉こそ使っていないが、情報格差が生じていることへの言及とも読める。世の中を見る目の広さと深さが感じられ、それを表明できるのも「自信」があるからこそだと思った。
(コラムニスト・矢部万紀子)
※AERA 2020年10月5日号より抜粋
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日- 1983年(昭和58年)8月3日)は、日本の染織家、沖縄文化研究者。
紅型の技術を継承し、重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定された。また、第二次世界大戦前に沖縄の文化財を調査し、大量の写真を撮影したりメモを記録したりしたことで、1945年(昭和20年)の沖縄戦で壊滅に瀕した沖縄文化の保存や復興に貢献したほか、戦後の首里城再建は、鎌倉の資料に負うところが大きい。
彼の評伝を著した与那原恵は、鎌倉を「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。
代表著書に『沖縄文化の遺宝』がある。石垣市名誉市民および三木町名誉町民。
(Wiki)