今週の4月6日号の週刊朝日に小さなコラムを見つけた。「奇跡を起こした軍人に光」というタイトルで樋口季一郎のことが短く書かれている。
まったく知らない名前だ。ナチスに追われたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した杉原千畝氏の功績はかなり知られている。同じように樋口季一郎氏は杉原氏の難民救出の2年前、昭和13年(1938年)にソ連と満州の国境にあるオトポールで、多くのユダヤ人を救ったそうだ。
杉原氏の前にもユダヤ人を救った日本人がいたとは初耳だ。
コラムを読むと、
「満ソ国境オトポールでのユダヤ人救出。シベリア鉄道でナチスから逃れた難民は、杉原氏の場合と同じく、ナチス・ドイツに遠慮した日本の外務省と満州国によって満州入国を拒否され、極寒の地で立ち往生した。
ハルビン特務機関長の樋口が、ハルビンに拠点を置く極東ユダヤ人協会の要請に応じて、ビザの発給や食糧援助をすぐに手配し、一説には2万人ともいわれるユダヤ人が救出された。」
ウィキペディアによると、
「当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、『ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ』と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクゼン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。
本来親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人若干名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界(オトポール事件)への移動の斡旋等を行った[1]。
樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。」
ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、表立って喧伝されたことがない、という。
宣伝されることもなかったためか、私もこのコラムを見て初めて知った。
南京大虐殺や従軍慰安婦など信憑性のないことばかり自虐史観を植え付けられ、このようなに誇るべき日本人の杉原氏や樋口氏のことがあまり公にされてこなかった。もっと多く人たちに誇りある話を広めてほしいものだ。
ところで今週発売の週刊ポストの広告見出しに作家の曽野綾子氏の発言に喝さいした。
週刊誌を買ってないから詳細はわからないが、広告見出しを見ると、特集は「君が代日ノ丸問題を考える」
タイトルは「曽野綾子『不勉強で非常識な人々』
「もしうちに小学生の子供がいたら、私は学校教育に抵抗して『先生にも不勉強で非常識な人もいるのだから、見捨てなさい。しかし国際間の礼儀として、国歌国旗に起立できる人が、ほんとうの国際人です。一人でも、勇気を持って立ちなさい。』と教え続けたと思う」
ほんとうにその通りだ。自国の国歌国旗を敬えない国民は世界広しといえども日本人くらいなものだと思う。そんなに嫌なら日本から出ていけばいい。
まったく知らない名前だ。ナチスに追われたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した杉原千畝氏の功績はかなり知られている。同じように樋口季一郎氏は杉原氏の難民救出の2年前、昭和13年(1938年)にソ連と満州の国境にあるオトポールで、多くのユダヤ人を救ったそうだ。
杉原氏の前にもユダヤ人を救った日本人がいたとは初耳だ。
コラムを読むと、
「満ソ国境オトポールでのユダヤ人救出。シベリア鉄道でナチスから逃れた難民は、杉原氏の場合と同じく、ナチス・ドイツに遠慮した日本の外務省と満州国によって満州入国を拒否され、極寒の地で立ち往生した。
ハルビン特務機関長の樋口が、ハルビンに拠点を置く極東ユダヤ人協会の要請に応じて、ビザの発給や食糧援助をすぐに手配し、一説には2万人ともいわれるユダヤ人が救出された。」
ウィキペディアによると、
「当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、『ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ』と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクゼン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。
本来親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人若干名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界(オトポール事件)への移動の斡旋等を行った[1]。
樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。」
ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、表立って喧伝されたことがない、という。
宣伝されることもなかったためか、私もこのコラムを見て初めて知った。
南京大虐殺や従軍慰安婦など信憑性のないことばかり自虐史観を植え付けられ、このようなに誇るべき日本人の杉原氏や樋口氏のことがあまり公にされてこなかった。もっと多く人たちに誇りある話を広めてほしいものだ。
ところで今週発売の週刊ポストの広告見出しに作家の曽野綾子氏の発言に喝さいした。
週刊誌を買ってないから詳細はわからないが、広告見出しを見ると、特集は「君が代日ノ丸問題を考える」
タイトルは「曽野綾子『不勉強で非常識な人々』
「もしうちに小学生の子供がいたら、私は学校教育に抵抗して『先生にも不勉強で非常識な人もいるのだから、見捨てなさい。しかし国際間の礼儀として、国歌国旗に起立できる人が、ほんとうの国際人です。一人でも、勇気を持って立ちなさい。』と教え続けたと思う」
ほんとうにその通りだ。自国の国歌国旗を敬えない国民は世界広しといえども日本人くらいなものだと思う。そんなに嫌なら日本から出ていけばいい。
コメント