2020年04月29日
きょうは「昭和の日」
きょう4月29日祝日は「昭和の日」、長らく「みどりの日」だったが、2007年(平成19年)から「昭和の日」となった。
下記の昭和天皇が不満をもらしたということを読んであらためて涙する。
平成・令和と血税で贅を尽くした時代を見てきているので、昭和天皇の国民を想う気持ちに民を想う天皇とは、と考えさせられる。
敗戦し、皇室財産は国に属し、費用は予算に計上し、国会議決を経なければならなくなった。そういうことに不満というか自分が使いたいからと思ったら違う。
「前程でなくてもよいから皇室財産が少し欲しい私の使ふのでなく、奨励とか救恤(きゅうじゅつ)とか又職員の福利とかにと述べ、社会事業や地域産業への奨励金、それに被災者や困っている人たちなどへの寄付金や義援金に充てる財源を希望した」という。
平成となんという違いか。
昭和天皇「拝謁記」− 戦争への悔恨
新しい皇室制度に不満を漏らす
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-06.html
「拝謁記」には、新しい憲法のもとでの皇室の予算や皇室会議のあり方について昭和天皇が不満を漏らしていたことも記されていました。
寄付金や義援金の財源を希望
昭和24年4月20日の拝謁では、昭和天皇が「新聞ニ憲法改正ノコトガ出テルガ。皇室ノコトナド 変ヘテ欲シイコトモアルガ 今変更シ出シテハ イロイロニナラウガ総理ナド政府ノ考ハドウデアラウ」と述べたのに対し、田島長官が「芦田内閣ノ中ニハ 松岡モ芦田モ一応調査シテ 変更ノ要ナシトイフ所ヘ モツテユクコトニ キイテ居リマシタガ、吉田内閣ニナリ一向話ガ立消エデ何モ存ジマセヌガソレトナクキイテ見マセウ」と応じたことが記されています。
戦前の皇室は、憲法から独立した存在で、議会や国民に制約されないようばく大な財産を保有していました。しかし、戦後の民主化政策の一環で財産は凍結され、さらに日本国憲法では財産のやり取りも厳しく制限され、すべての皇室財産は国に属し、費用は予算に計上して国会の議決を経なければならなくなりました。
昭和25年8月10日の拝謁では、昭和天皇がこうした現状を不満に感じて、「前程でなくてもよいから皇室財産が少し欲しい私の使ふのでなく、奨励とか救恤(きゅうじゅつ)とか又職員の福利とかに」と述べ、社会事業や地域産業への奨励金、それに被災者や困っている人たちなどへの寄付金や義援金に充てる財源を希望したことが記されています。
昭和28年11月25日の拝謁では、昭和天皇が「救恤(きゅうじゅつ)金などでも国会のワクがあるが、あゝいふのも自由ニしたいので自分の為ニ自分の用ニ自由ニしたいのでない又皇室費を昔の様ニ一本ニして欲しいのだといつたら吉田ハ昔はそうでしたかと言つて知らなかつた。自分の為ニ自由ニなるお金の意味ではないというふ旨をいったが、どうも現状の事も吉田ハ十分知らぬやうで」と述べたことも記されています。
「皇室会議」にも言及
また、皇族の結婚など皇室の重要事項を決める「皇室会議」についてもたびたび言及していて、昭和26年9月6日の拝謁では「あれは矢張り元の私の議長ニなる皇室会議の方がよい」と述べ戦前と同じ形が望ましいという認識を示したことが記されています。
翌年(昭和27年)9月30日の拝謁では、昭和天皇が「皇族会議(原文ママ)は元のやうな純粋な親族会議ニするといゝと思ふうがねー、皇族の数も少なくなつたし、選挙といふもおかしいし」などと述べ、田島長官が「憲法の建て前も天皇統治権総攬から主権在民と移り皇室典範もその影響で改正されて居りまするので、研究は致しまするが」と応じたことが記されています。
日本の第122代天皇・明治天皇の皇后、昭憲皇太后は昭憲皇太后基金という国際赤十字基金を持っていた。

昭憲皇太后基金(しょうけんこうたいごうききん)(英:EmpressShoken Fund)は国際赤十字の基金。
1912年(明治45年)、アメリカ合衆国のワシントンD.C.にて開催された第9回赤十字国際会議において、昭憲皇太后が国際赤十字に下賜した10万円(現在の3億5000万円に相当)を元に創設された。
第1回から第100回までの配分総額は約11億240万円であり、2015年(平成27年)3月31日時点の基金総額は約18億5730万円(1500万スイスフラン)。
1944年(昭和19年)を除き、1921年(大正10年)から現在に至るまで毎年、昭憲皇太后の命日である4月11日に基金の利子が世界各国の赤十字社と赤新月社に配分され、これまで世界161ヵ国の国や地域の災害や感染症に苦しむ人々の救済や福祉の増進、防災や病気の予防などの活動に充てられてきた。
その後も貞明皇后や香淳皇后、また上皇后美智子からの下賜金、または日本赤十字社の資金協力などもあり、様々な形で基金が増額されている。
100周年を迎えるに当たり、明仁天皇と美智子皇后からの下賜金、明治神宮と明治神宮崇敬会からは1000万円の寄付があった。
(Wiki)
下記は戦後昭和天皇が昭和21年から29年まで全国を巡行され、佐賀の戦災孤児が生活している因通寺を訪問した時の涙されたエピソード。
昭和天皇の涙【感動】(10:42)
因通寺(いんつうじ)
佐賀県三養基郡基山町宮浦815



下記は戦後のご巡幸についての曹洞宗西光寺の法話です。
長文ですので全文は下記サイトをご覧ください。
抜粋したものを紹介します。
法話 − 令和元年5月
日本人の宗教観その8 ― 天皇 その4―
https://www.saikoji.net/houwa/howa1905.html
(前略)
神武天皇以来2600年以上もの長きに亘り、天皇と国民はまさに相思相愛の関係にありました。
戦後は現人神としてではなく日本国の象徴としての位置付けになりましたが、国民の想いとその威厳はまったく衰えていません。
日本には精神的主柱である天皇がおり、日本人に生まれたことで天皇が庇護する日本国の一員であるという誇りと自負が芽生えます。
そこに自ずと天皇崇拝の想いが生まれるのは自然なことであり、それはまさに“信仰心”に他なりません。
何となればこれこそ「宗教」ではないでしょうか。
以上のことを踏まえて、前回に続いて昭和天皇が戦後とられた行動とエピソードを紹介したいと思います。
戦後間もない、まだ新憲法も公布されてもいない、「象徴天皇」という言葉もまだないなか、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならないという想いから天皇が選択されたのが、全国行幸だったのです。
天皇巡幸は昭和21年2月から29年にかけて全国を巡幸され、全行程は3万3千キロ。
東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になります。
敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅でした。
未曾有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
陛下が選択されたのは全国民の真心を喚起するということだったのです。
国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で、真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がるための勇気を与えようと全国を巡られたのです。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないなか、無防備のまま巡られたのです。
普通の国であれば、平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされるものです。
それでも暗殺される王様や大統領だっています。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇陛下が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡り、国民を慰める・・・なんという命知らずの大胆なやりかたであろうか。いつどこで殺されるかもしれない・・・
「ヒロヒトのおかげで、父親や夫が戦争で殺されたという恨みを考えれば、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40才を過ぎた猫背の小男ということ、神様じゃなくて人間だということを日本人に知らしめてやる必要がある」と、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされていました。
しかし、その結果は高官たちの“期待”を裏切るものでした。
驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って「天皇陛下万歳」と叫んで陛下を慰めている。
なんと美しい国の元首と国民の親しみ、心と心の結び、これは日本以外どこにも見られないことでした。
イギリスの新聞は、この驚きを次のように率直に述べています。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」
ローマ帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ滅びています。
神の如く慕われていたヒトラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいます。
それが、日本に限ってまったく違った現象が起こったのです。
外国人が驚愕したのも頷けますね。このような国は他にはありません。
戦後日本が焼野原から急成長を果たしていったのも天皇陛下と日本国民の心の結びつきが非常に強かったからこそだといえるでしょう。
しかし、国民のマジョリティーはそうだとしても、中には当然マイノリティーも存在します。
実際、共産主義に感化された一部の人々の中には、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊し上げようと、各地で待ち受けていた輩もいたのです。
そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを佐賀のケースで見てみましょう。
佐賀県に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。
この寺の住職、調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。
そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。
この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。
因通寺のある町では、陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。
歓迎するのにも命がけの雰囲気です。反対派から何をされるか分りません。
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろいろな想いの群衆から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がりました。それは、地響きのようでした。
以下昭和天皇が因通寺訪問された話になります。
(以下詳細は上記サイトへ)
この記事へのコメント
Melissaさん、
ご主人さま、昭和天皇物語を読んでいらっしゃるのですね。
やっぱり美智子さんがいじめられていたということが嘘と感じてしまわれたのですね。
今の時代に昭和帝がいらしたらどんな国難も安心感あったと思います。
まゆゆファンММさん、
真の天皇陛下は昭和大帝が最後、そう思います。
二代続けてのあり様は「大空位時代」、同感です。
皇嗣殿下の即位で真の皇室を取り戻すことでしょう。
失われた30年のダメージは大きい、令和もさらにもっと失われた時代になりそう。
インコさん、
昭和天皇の「あ、そう」が懐かしいですね。
皇后のどこが素晴らしいのか、日本人にはわかりませんね。
秋篠宮皇嗣殿下は、昭和天皇陛下にたいそう似ておられます。昭和天皇陛下「あ、そう」がお懐かしいです。最後のご公務のお姿が泣けて泣けて…去年の終戦記念日のマタコ、ゆらゆら目をパチパチ。こんな皇后のどこが素晴らしいのか!?日本人にはわかりません。

皇嗣(秋篠宮)殿下がご即位遊ばせれば話は別ですが、真の意味での天皇陛下はやはり昭和大帝が(今の所)最後だと思います。
二代続けてあの有様ですから、平成以降は事実上の「大空位時代」だと私は思っております。その大空位時代も、皇嗣殿下のご即位を以て終わります。今はその日が一日でも早く訪れる事を祈るのみです。
まだ覚醒していなかった頃は、「みどりの日でいい。何故昭和の時代を殊更美化しようとするのか」と、思っていたものです。若気の至りと言ってしまえばそれ迄ですが、汗顔の至りです。
今では昭和の日になって良かったと痛感しております。ある意味、失われた30年のダメージはことのほか大きく、それを癒すのは困難を極めると思います。

素敵な記事をありがとうございます
うちは主人が昭和天皇物語を読んでいるのですが、その香淳皇后さまの描写が愛らしく優しいので、皇室のことなど詳しくしらないのに「もしかして美智子さまが香淳皇后さまにいじめられてたって嘘なんじゃないの、そんなことする方に思えない」と気づいていました。
いまが昭和帝の御代ならこんな国難でも安心感があったのに…と思います。
榛名さん、
「みどりの日」なんて昭和を消し去ろうとする目論見みたいでした。
そうですよね、上皇はクリスマスイブ、下天は知る気も起こらず。
美智子さんの贅沢三昧は途方もない金額です。
「悪夢の皇室二世代時代」国民にとっては「暗黒の時代」、同感です。
今の人たちは上下天夫妻が皇族と思っているのですね、お気の毒。
秋篠宮殿下から悠仁殿下へ引き継がれる皇統で真の皇室が取り戻されると期待します。
愛知のババちゃんさん、
御歌、心に響きます。
当時の子供たちには励みになったことでしょうね。
りくさん、
祖父母のお宅に預けられていた時に昭和天皇と間近にお会いされ、涕涙され、お祖父さまも落涙されたのですね。子供心に感動するものがあったのでしょう。
いいお話をありがとうございます。

私は幼少期、ある事情で祖父母の所へ半年ほど預けられていた時があったのですが、その時に祖父に連れられ拝迎した折、昭和天皇を間近で拝見し涕涙した覚えがあります。祖父が私の様相をみて落涙してました。
年端もゆかぬ当時、譯も解らず涕涙した事を不思議に感じてましたが、歳を重ねる度に昭和天皇の大御心を知る事となります。「あ、そう」と愛嬌のある返事なされる陛下も好きでした。
不遜に當るのかもしれませんが、上皇陛下皇后両陛下及び今上天皇皇后両陛下を拝見しましても、未だ同様な感情を抱いた記憶がありません。
ブログ主様の記事を見て、再び熱い感情が込み上げてきたので寄稿しました事をお許しください。
昭和帝の御歌(御製)はとても趣き深く、良い御歌ばかり。
昭和帝はこどもらが大好きでいらっしゃいました。
国の礎であることをとてもとても大切に心から慈しんでおられました。
言葉というものは多ければ良いということではありません。こどもらはどんなにか励みになったでしょう。
見苦しいヒトモドキ等が、祭祀もせず、位にど座っている皇室が早く本来の皇室に戻りますことを毎日祈っております。
remmikki様、皆様、注意深くお大事にお過ごしくださいませ。
私も4月29日はずっと「天皇誕生日」でした。
「みどりの日」なんて全く思ったこともなかったです。
はっきり言って上皇だかの誕生日はクリスマスイブイブってやつじゃん・・・程度にしか思っていなかったのも事実。
下天に関しては全くそんな気すら思わず知る気もなく、
どうでもいい、が本当のところ。
動画もお写真も本当に今更ながら素晴らしい。
昭和天皇と香淳皇后のお写真、素敵過ぎます。
アキミチなんてバブル皇室そのもの。その後にバブルがはじけてもミテコの我儘は続き、それをそっくり引き継いだ能無しナルマサ。おかげで庶民は人災厄災続き。政治的に言うなら「悪夢の皇室二世代時代」国民にとっては「暗黒の時代」。二度と政権は握らすまい、二度と皇室を破壊されますまい、です。
まだ令和ではありますが
世界も日本も大きく変わろうとしている何かを感じます。
あの上下天負債が皇室、皇族だと思って生きてきた今の大人や子供たちは不幸。しかし唯一秋篠宮殿下と紀子妃殿下がおられることに、まだ日本も捨てたものではないと思えることに昭和天皇の思いを感じずにはいられません。
remmiki様、今日の更新も本当にありがとうございました。
SKです。さん、
97歳で亡くなられた曽祖母さまのご命日だったのですね。昭和天皇お誕生日と同じとは。
靖国神社も参拝されましたか。
そうですね、多くの犠牲のお陰様で今の繁栄があること感謝せねばなりません。
デパートもどこもシャッターが降りているとは異常です。
千鳥ヶ淵から皇居をご覧になって誰もいない皇居を思いますね。
昭和天皇は、国家と国民の安寧を願う真の天皇陛下でした。
いつも笑顔でさん、
おふたりのお写真、自然で美しいです。
子どもたちへの笑顔もリラックスしてます。
5月の連休に合わせてみどりの日となったのかなあ?
そうか例のおばばね。
なるほど、第一次安倍内閣の時でしたか。意味あるかも。
単細胞さん、
女の子も小さいのに立派過ぎて涙が出ます。
両親が亡くなったことを天皇陛下のせいにしてないです。
涙が出るエピソードです。
今記事を追加しました、「日本人の宗教観」、ぜひ読んでください。
ちょいワル臣民さん、
嘘の説に長年騙されてきました。
そうですね、香淳皇后陛下に国民がお詫び申し上げる一日ですね。
洗脳したミテコさんもお詫びしたら?
にしさん、
昭和天皇、お言葉の数は少ないけれど、心を打つことが多かったです。
崩御された時ねえ、私は幼い二人の子を抱えて共働きの真っ最中でした。
地元の通りが静かで人通りも少なかったこと覚えてます。
猫パンチで日本再生さん、
昭憲皇太后と打ち込むと、すぐ候補に「昭憲皇太后基金」と出たのですね、さすが検索の達人さんです。私貞明皇后と勘違いしてしまい、間違い指摘されました。けっこうお叱りきつくてグスン(涙)です。私だって聖人でないから間違います!
昭和と違い、ヘイセイもレイワもなんと忌まわしい時代なのでしょうか。
昭和天皇皇后両陛下こそ真の天皇皇后両陛下です。
大日本臣民さん、
昭和天皇万歳です!

昨日、紀子様のメッセージ記事から香淳皇后wikiに飛び、ちょうど上げてくださっているお若い頃の御二方の写真を拝見してました☺️ 陛下ご幼少の頃の旭日旗をお持ちの写真が好きです🤗
昭憲皇太后と打ち込んでいると、すぐ候補に「昭憲皇太后基金」と出ました😳誇らしいですね、皇族方の御功績。昭和天皇の「おほみたから」への思い。「有難い」です✨
・・・・
それに引き換え…なんと忌まわしいヘイセイ・レイワ😡💢💢
国民の血税を貪る世界最低位:ショーダ朝鮮王朝の女帝と王配殿下、オワダ朝鮮王朝の日王と王妃😾👊🏼💢💢
天皇不在の異常な御世に終止符を‼️
秋篠宮同妃両殿下の御即位を切に待ち望みます🇯🇵
「良宮(ながみや)」「お上」と呼び合っていた昭和天皇皇后両陛下。お写真拝見して、ほのぼのとします🌸
ふと思いついて調べたのですが、みどりの日から「昭和の日」に変わったのが2007年だとすると、第一次安倍内閣のときですね。
意味があるのかないのかわかりませんが、参考までに。
両親の位牌を抱いた女の子との会話には涙がこぼれました。女の子に伝わったのは国民全てを抱く天皇の自覚の心だったのではと思った瞬間に、背中が暖かくなりました。
そして御心に抱かれて昭和の時代を生きてきたことに気付かされました。今更で申し訳ない思いです。
もしかしたら昭和の御心はまだ続いていて日嗣の御子の御代をお待ちなのかも知れませんね。
感覚的な話で証明はできませんがコメントさせていただきました。
おふたりとも立ち姿も自然でお美しいですね。
それに子供たちに対したときのご尊顔の優しそうなこと。子供たちの背中もリラックスしていて微笑ましいです。
どうして4月29日がみどりの日なのかずうっと疑問でした。今は例のオババが「昭和の日」とするのを邪魔してたのに違いないと、(根拠はありませんが、勝手に)信じてます。
緊急事態宣言中ですが、
今日は、97歳で亡くなった曽祖母の御命日だったので、
主人と築地本願寺和田堀廟へ御墓参りに行って来ました。
人気の無い静寂な中、ゆっくりとお参りが出来ました。
曽祖母は、大家族の扇の要でした。
有り難い御墓参りにでした。
少し足を伸ばして、
九段の靖国神社へ参拝に行って参りました。
静寂の中、
多くの犠牲のお陰様で今の繁栄がある事を感謝して参りました。
車窓から見た途中の新宿も、
デパートもどこもかしこも全てシャッターが降りていて、
こんな風景を初めて見ました。
日本の国難である事を、肌で感じました。
千鳥ヶ淵から皇居を拝し、
今、誰も住んでいない皇居を実感しました。
ですから、今日のremmikki様の
昭和天皇と香淳皇后のお写真の有難たさが、
身に染みました。
昭和天皇は、国家と国民の安寧を願う、
真の天皇陛下、
真の祭祀王でいらしたのですね。
そして、天皇陛下にそっと寄り添う、
香淳皇后の上品な美しさに見惚れてしまいました。
世界に誇る日本の皇室でした。
remmikki様
良いお写真を、誠に有難うございました。
シマエナガさん、
そうですね、便利な時代でなかったし、貧乏だったけど、幸せな時代でした。
4月29日が一時みどりの日となった時、なんで?と不満でしたが、昭和の日に戻り良かったです。
ご主人さまのおっしゃる通り、天皇陛下は昭和天皇ですね。
机の話覚えます。
下天夫妻は悠仁さまが生まれた時、愛子さんが使っていたベビーベッドも処分していたとか。
ねこのみー。さん、
感動する動画ですね。
学校では教えません、戦後のGHQによる自虐史観で昭和天皇やA級戦犯と言われるように悪者でしたから。
四月月末さん、unknownさん、
間違いでした、直しました(冷や汗)。
昭和天皇の母は貞明皇后です。
本文中にある動画をみて、涙が止まらなくなりました。以前にこちらのコメント欄で教えていただいた動画です。
なぜ、学校では教えてはくれなかったのだろう?むしろ、言葉は悪すぎるけれど「悪役」のように先生方は教えてました。
目がさめてよかった。
懐かしいお写真と貴重な記事をありがとうございます。
現代のような便利な時代ではなかったのに何故か幸せな時代でしたね。
昭和天皇と香淳皇后さまを始め、皇族の皆さまをただただ尊敬しておりました。
今となればとんでもない人が入り込んでいた訳ですけれど。
主人の言葉に笑ってしまいました。子どもの頃に覚えたことは忘れないものなのでしょうか。
「今日4月29日は天皇誕生日としかおもえないよね」との事です。私にとりましても同じ思いなのですよ。
天皇陛下はやはり昭和天皇なのだそうです。
二代飛ばして、早く秋篠宮皇嗣殿下を天皇陛下とお呼びできますように。
そして悠仁さまにお繋ぎできますように。🇯🇵
先日のアンケートの記事ですが何故
remmikkiさまと読者さまに聞いてくれないのでしょうね。100%否定ですよ。
そういえば、今上天皇か上皇后さまか分かりませんが、昭和天皇がお使いになられていた机を
外に放り出し気づいた秋篠宮家の職員が殿下と相談のうえとは思いますが、秋篠宮家へ運び込んだ記事、ご存じでしょうか。
本当に腹立たしい方々です。
涙が出そうになります。