台湾・李登輝氏、第4代中華民国総統が亡くなられた。大の親日家だった。
李登輝氏死去 京都帝大で学ぶ 「食べ物に困った」元総統が語った京都の思い出
京都新聞 2020/7/30(木) 22:30配信https://news.yahoo.co.jp/articles/601e0207e27c82571c926549bea9e423f3fb9e3a

銀閣寺を訪れた台湾の李登輝・元総統(中央、2004年12月31日)
7月30日に97歳で死去した李登輝(り・とうき)元総統は、京都帝国大学に1943年に入学した。李登輝氏は2006年、台北市内で京都新聞の取材に応じ、「台湾から京都に来たのは終戦の2年前。まず食べ物に困った。配給券を持ってあちこちの食堂を回ったが、お米は茶わん一杯もなく、野菜も足りない。困って台湾から豚の脂の缶詰と砂糖を送ってもらった」と、日本語で若き日の京都の思い出を語った。
京都帝大のキャンパスは閑散としていたという。日本統治下でも台湾・朝鮮出身の学生は召集されていなかったが「同級生が兵隊に行くのに自分だけのんびりはできない」と志願した。
李登輝氏は、大阪で兵役検査を受けた。「旧制高校のころから『死』とは何かを勉強した。今の人にはおかしいだろうが、検査官に『歩兵に行かせてくれ』と言った。一番苦労し、人間の生死の間をさまよい、死とは何かを理解するには歩兵がいいと」などと、戦争中の思い出を話していた。
李登輝氏は、たびたびの訪日に日本政府、特に福田康夫、河野洋平らにより訪日ビザを拒否されていた。
2001年4月、李登輝は、持病の心臓病治療の目的で倉敷市を訪問している。
日本政府は人道的な措置として査証発給したが、その際に、支那へ忠誠を誓う福田康夫内閣官房長官や河野洋平外相はビザ発給に反対した!
福田康夫や河野洋平は、その後も支那の工作員として李登輝の2004年の訪日に反対するなど、いちいち李登輝の活動に対して虐め妨害工作を展開した!
支那工作員として李登輝に対して徹底的に嫌がらせをした河野洋平(紅の傭兵)
(正しい歴史認識ブログより)
河野洋平
李登輝訪日への反対
2001年(平成13年)の台湾の李登輝前総統訪日に中華人民共和国からの強い抗議を受けて、自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。ビザが交付されたが、河野は辞任しなかった。
(Wiki)
「 李前総統にビザを発給しない非人道的な外交を糾弾する 」
櫻井よしこオフィシャルサイト 2001.04.16 (月)
https://yoshiko-sakurai.jp/2001/04/16/51
外務省側はアジア大洋州局長の槇田邦彦氏が、河野洋平外相の意を受けるかたちで強硬にビザ発給に反対し、官邸側では、福田康夫官房長官が強烈に反対の意思を示している。彼らは日中関係に悪影響を及ぼすのではないか、一度ビザを出すと、次からも「また来られてしまう」のではないか、米中関係が軍用機接触事故で緊張含みのときに、新たな李登輝訪日問題がどんなインパクトをもたらすか、予測がつかないと心配しているということらしい。
しかし、この人たちは李前総統にビザを出さないことのマイナス面をまったく考えていない。
第1に、病気の人に治療のチャンスと場所と技術を与えないのは非人道的である。日本が武力に頼らない外交を推し進めようというのならなおさら李前総統をお招きするべきだ。
第2に、ビザを出さなければ、中国に、日本は強い力や言葉で押せば屈服する国なんだと、また確認させることになる。
第3にそんな日本の姿を、誰が尊敬してくれるかということだ。
第4に、河野、福田、槇田3氏らの反対意見は、国民の意見とは正反対だ。国会議員の大多数も正反対だ。ごく少数の偏った物の見方で、日本外交を誤らせ、日本の国益を損なうことがあってはならない。日本は病気の友人を、大国の怒りを恐れて拒絶する卑しい小国であってはならないのだ。
北海道大学も李登輝氏の訪問を拒否したことを過去記事に書いている。
2014/9/27
「李登輝氏 6回目の来日、 訪問を拒否したバカな北海道大学」
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4751210.html
北海道で、敬愛する新渡戸稲造が卒業した札幌農学校の後身である北海道大学の訪問を希望していたという。同大が難色を示したため見送った。高齢でいらっしゃるのになにが難色を示しただ!
015/7/24
「台湾元総統 李登輝氏 来日講演」
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4910973.html
台湾元総統 李登輝氏 が来日、都内で日華議員懇談会の平沼赳夫会長、藤井孝男幹事長、江口克彦参院議員らと会談した。大阪と東京で講演、東京ではあの反日外国特派員協会でも講演した。
反日の外国特派員協会がよく講演依頼したものだ。
李 登輝(り とうき、リー・テンフイ、1923年〈大正12年〉1月15日 - 2020年7月30日)は、政治活動家・農業経済学者。第4代中華民国総統(7期途中昇格・8期・9期、1988年 - 2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老派。日本統治時代に使用していた名は岩里 政男(いわさと まさお)。
蒋経国を副総統として補佐し、その死後は後継者として中華民国の歴史上初めての民選総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在すると主張した
台北高等学校に入学した登輝は、1年次に台湾総督府が推進した皇民化運動の中で展開された改姓名運動の中、「岩里政男」と改名。生涯流暢な日本語を話し「21歳(1945年)まで日本人だった」「難しいことは日本語で考える」と公言している。訪日時は日本語を使用している。
親日の政治家・言論人として知られる。台湾の公人でありながら自らを「22歳まで日本籍だった」と発言するなど、親台派からその親日ぶりが高く評価されている。
「一つの中国」を国是とする中華人民共和国(中国共産党)は、登輝を「台湾独立勢力の象徴的人物」として危険視し、李の訪日希望には査証を発給しないよう要求している。ただし、登輝は政界入り直後に日本の政治家と会談し、副総統時代にも査証発給の問題なしに訪日を実現している。
2002年10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が同大学の学園祭「三田祭」において講演を依頼したが、日本政府が李登輝への査証の発給を拒否。訪日と講演は実現しなかった[50]。講演予定だった内容は、11月19日付け産経新聞朝刊で「日本人の精神」と題して全文が掲載された。
2007年6月7日には、日本兵として戦死した兄が奉られている靖国神社を参拝した。その際に登輝は同神社に対し「兄の霊を守ってくれることに感謝している」と述べている。
(Wiki)

李登輝氏は天皇陛下とはとうとう会えず仕舞い。
東日本大震災に台湾から多額の支援をいただいた感謝の言葉を園遊会に招いた台湾・台北駐日経済文化代表・馮寄台氏に当時の天皇陛下が感謝の言葉を述べた。
台湾の民主化を実現し、日本の良さを発信続けてくださり、日本を愛した李登輝さん、日本政府はなんという意地の悪さをしでかしたのか、今でも憤りを感じる。それでも李登輝さんは日本を愛し続けてくださった。
李登輝さん、日本が中国にのまれませんように天国で見守ってください。
李登輝氏のご冥福を祈ります。







2007年訪日されたとき5月31日深川の芭蕉記念館を訪問。そのとき、
深川に芭蕉慕ひて夏の夢 登輝
の自作の俳句を披露。
私も「李登輝さんが来るから行こう」と誘われていたのですが、仕事が立て込んでいて行けなかったことが、今でも悔やまれます。
私事はともかく、この後李登輝氏は奥の細道めぐりをします。
6月2日松島では、
松島や光と影の眩しかり 登輝
と詠み、この俳句は奥様の、
松島やロマンささやく夏の海 曽文惠
の作品と並んで句碑になっているようです。
李登輝氏には日本人の秘書がいたのですね。その早川友久 さんが、WEDGE INFINITY(2020年7月31日付)
に、『李登輝はなぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか』というタイトルで寄稿しています。
もうお読みになったかもしれませんが、その中の、
「(一人息子の)憲文は同級生と結婚した3年後、1982年にガンで32歳の若さで亡くなっている。一人娘の坤儀はまだ7ヶ月だった。当時、省主席だった李登輝は、息子の亡骸をストレッチャーに乗せると『冷たいだろうから』と、自ら抱いて運んだという」のくだりには胸が痛みました。
息子さんを亡くしていたことは知っていたのですが・・・
remmikkiさんの記事中に北海道大学の小心振りがありましたが、李登輝氏の母校の京都大学も1997年の百周年祭に李氏の入校を拒否しているんですよね。
前出の早川さんの文中にも、
「李登輝自身、総統退任直後は訪日ビザが発給されず『日本外務省の肝っ玉はネズミより小さい』と不満を顕にしたことさえあったのだ」
とあります。
ご葬儀には、せめて総理経験者レベルの人(今は私人)が出席してほしいです。
遠い南アのマンデラ氏の葬儀には福田康夫付きでナルが出席しているのですから。